┃生没年

 521~549年8月


○北斉文襄紀

〔武定…七年(549)…八月…〕辛卯,王遇盜而殂,時年二十九。


┃容姿

 北史:美姿容

 賈子儒:瞼が薄く、目の動き(或いは瞬き?)が非常に速い。これは帝王の相では無い


性格

 北史:長男でしかも英邁だったため、父の高歓に兄弟の中で最も愛され、重んじられた。百官はその影響を受けて、みな澄に畏敬の念を示した。美男子で、話術に長け、談笑している時でも上品な態度を崩さなかった。聡明で機知に富み、多くのはかりごとを巡らし、宰相の地位に就くと流れるように物事を処理した。また、人材を尊び手厚くもてなした所は、父の面影があった。

 辛術伝:東魏が都を鄴に遷して以降、吏部尚書に就いて知名度があった者は四名ほどいたが、それぞれ一長一短あり、完全ではなかった。澄(在位538~?)は若さゆえの闊達さがあったが、そのぶん大雑把な所があった。

 崔暹伝:車や服がド派手で、常識に外れた誅戮を行ない、言動には時々礼儀を失した所があった。崔暹がそのたびに表情を厳しくして言葉を尽くして諌めると、澄はこれを聞き入れてそれらを全て改めた。


正室

 元氏馮翊公主)…北魏の清河王亶の娘。河間王孝琬の母。容姿・性格共に優れ、万事温和で控えめだった。澄の死後、澄の弟の文宣帝に「兄は昔、わしの妻を犯した。今、その仕返しをしてやる」と言われて犯された。

側室

 宋氏…魏の吏部尚書の宋弁の孫娘。もと魏の潁川王斌の妃。河南王孝瑜の母

 王氏広寧王孝珩の母

 …《北史演義》では荀翠容蘭陵王長恭の母

 陳氏安徳王延宗の母

 燕氏漁陽王紹信の母

 元玉儀琅邪公主)…東魏の高陽王斌眉目秀麗で、謙虚で穏やかな性格をしており、慎み深く仕事に当たったので、澄に非常に気に入られた)の庶妹。もと孫騰の妓女。澄に道中にて一目惚れされ、側室とされた。のち琅邪公主とされた。澄は一時、彼女を正室にしようとした。《北史演義》では肌が雪のように白いとされ、《南北史演義》では即位の際には姉の静儀と共に左右皇后にしようと言われた。

 元静儀東海公主?)…玉儀の同母姉。もと黄門郎の崔括の妻。《北史演義》《南北史演義》では妹の玉儀に容貌が似ているとされる。即位の際には左右皇后にしようと言われた。《北史演義》では東光県主。

 李昌儀李徽伯の娘。高仲密の妻。才色兼備で、文書の作成や乗馬を得意とした。澄に関係を迫られると抵抗し、着衣がボロボロの状態で夫のもとに逃れた。のち夫が西魏に寝返って取り残されると、澄に「今日は誘いを受けてくれるな?」と言われ、側室とされた。

 郁久閭氏蠕蠕公主)…柔然の頭兵可汗の娘。初め高歓に嫁いだが、歓が死ぬと柔然の慣習に従って澄に再嫁し、一女を産んだ。


┃女性関係

 鄭大車鄭厳祖の娘。父の高歓の側室。馮翊王潤の母。15歳の時に密通

 元氏薛寘孝武帝の西遷に付いていった薛寘の事か?)の妻。関係を迫ったが拒絶された。

 高洋の妻…具体的な名前は無い。正妻の李祖娥なら高洋の愛妻なので激おこ案件だっただろう。

 

┃人間関係

 高敖曹:父子の礼

 東魏の孝静帝:正室の元氏馮翊公主)の兄

 司馬子如:父との仲を取り持ってくれた大恩人

 杜詢:先生

 崔暹:腹心中の腹心

 崔季舒:腹心。女漁り係


┃官位

 531年2月:勃海王世子

 532年3月:驃騎大将軍・勃海王世子

      4月:侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・勃海王世子

 534年  :使持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・〔并州〕大行台尚書令・并州刺    

       史・勃海王世子

 536年2月:使持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・大行台(京畿?山東?)尚書

       令・領左右・京畿大都督・勃海王世子

 538年  :使持節・侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司・大行台(京畿?山東?)尚書
       令・摂吏部尚書・領左右・京畿大都督・勃海王世子

 543年11月:使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司・大行台(京畿?山東?)尚書令・摂吏

       部尚書・領左右・京畿大都督・勃海王世子

 544年3月:使持節・〔侍中?・〕大将軍・開府儀同三司・大行台(京畿?山東?)尚書

       令・摂吏部尚書・領中書監・領左右・京畿大都督・勃海王世子

 

┃美男子

 世宗文襄皇帝は諱を、字を子恵といい、神武皇帝高歓)の長子である。母は婁昭君。生まれた時から姿形が美しかったので、歓から特別視されるようになった。

 

〔のちの東魏時代、〕御史に賈子儒という良く人相を占える者がいた。〔澄の腹心の〕崔暹があるとき子儒を連れてこっそり澄の人相を見させると、子儒はこう言った。

「人は七尺の体を持っておりますが、〔重要性は〕一尺の顔に敵いません。その一尺の顔も、一寸の眼には敵いません。大将軍()は瞼が薄く、目の動き(或いは瞬き?)が非常に速うございます。これは帝王の相ではございません。」

 果たしてそれは現実のものとなったのである。


〔父の高歓は澄が産まれたとき北魏の北辺の懐朔鎮にて函使(伝書使)をし、懐朔鎮と洛陽を行き来していた。

 母の婁昭君は千人の召使いと谷単位で量るほどの牛馬を持つ大豪族の娘だったが、歓に一目惚れして結婚した。〕


◯北斉文襄紀

 世宗文襄皇帝諱澄,字子惠,神武長子也,母曰婁太后。生而岐嶷,神武異之。〔…文襄美姿容,善言笑,談謔之際,從容弘雅。性聰警,多籌策。〕

○北89賈子儒伝

 又時有御史賈子儒,亦能相人。崔暹嘗將子儒私視文襄,子儒曰:「人有七尺之形,不如一尺之面;一尺之面,不如一寸之眼。大將軍臉薄眄速,非帝王相也。」竟如言。


┃少壮気猛

 澄は長男でしかも英邁だったため、父の高歓に兄弟の中で最も愛され、重んじられた。百官はその影響を受けて、みな澄に畏敬の念を示した。


 澄は美男子で、話術に長け、談笑している時でも上品な態度を崩さなかった。聡明で機知に富み、多くのはかりごとを巡らし、宰相の地位に就くと流れるように物事を処理した。また、人材を尊び手厚くもてなした所は、父の面影があった。


 一方、〔弟の〕高洋のちの北斉の文宣帝)は明敏な頭脳を有していたが、甚だ風采の上がらぬ顔立ちだった。そのため、澄は洋をよくこうからかった。

「こいつが富貴の身分になれるんだったら、相法(人相占い)は役立たずだな。」


◯北史北斉文襄紀

 文襄美姿容,善言笑,談謔之際,從容弘雅。性聰警,多籌策。…愛士好賢,待之以禮,有神武之風焉。

○北斉文宣紀

 內雖明敏,貌若不足,世宗每嗤之,云:「此人亦得富貴,相法亦何由可解。」〔帝沈敏有遠量,外若不遠,內鑒甚明。文襄年長英秀,神武特所愛重,百僚承風,莫不震懼。〕


┃父子の礼


531年2月、北魏の驃騎大将軍・儀同三司・左衛将軍・大都督・晋州刺史・平陽郡開国公の高歓が爾朱氏からの独立を目論み、叛乱軍を討伐するという名目で〕信都(冀州)に進軍すると、封隆之・高乾らは開門してこれを城中に入れた。


〔乾の弟の〕高敖曹はこの時近隣を攻略しに出かけていたが、これを聞くや憤慨して乾に女物の服を送りつけてその女々しさを責めた。しかし歓が子の澄(このとき11歳)を派遣して敖曹に父子の礼をとらせると、遂に折れて帰順した。


○北斉神武紀

 魏普泰元年二月,神武自軍次信都,高乾、封隆之開門以待,遂據冀州。

○北31高昂伝

 神武至信都,開門奉迎。昂時在外略地,聞之,以乾為婦人,遺以布裙。神武使世子澄以子孫禮見之,昂乃與俱來。


┃渤海世子

 3月、北魏(爾朱氏)が歓を勃海王[1]とし、その答礼として入朝するよう求めた。しかし歓はその誘いに乗らず、封爵を固辞して受けなかった。

 澄はこのとき渤海王世子に立てられた。

 澄は杜詢のもとで勉強した。このとき、詢は澄のあまりの聡明さに舌を巻いた。


○魏前廃帝紀

 三月…驃騎大將軍、儀同三司、左衞將軍、大都督、晉州刺史、平陽郡開國公齊獻武王封勃海王。

○北斉神武紀

 是月,尒朱度律廢元曄而立節閔帝,欲羈縻神武。三月,乃白節閔帝,封神武為渤海王,徵使入覲。神武辭。

◯北斉文襄紀

 魏中興元年,立為渤海王世子。就杜詢講學,敏悟過人,詢甚歎服。


 [1]高歓は祖先の出自を勃海と称していた。爾朱氏はその地の王とすることで歓の歓心を買おうとしたのである。


┃馮翊公主降嫁

6月高歓が信都にて挙兵し、10月に渤海太守の元朗を皇帝に擁立し、廃帝とした。

 532年、鄴を陥として丞相・柱国大将軍・太師とされた。〕

 3月、丙寅(2日)、澄(時に12歳)を驃騎大将軍とした。


閨3月、歓は爾朱氏を韓陵山にて大破し、華北の覇者となった。

 4月、洛陽に入城し、廃帝を廃して孝武帝を立て、大丞相とされた。〕


 庚寅(27日)、北魏(高歓)が澄を侍中・開府儀同三司とした。


 この年清河王亶孝文帝の孫)の娘の馮翊公主兄の元善見〈のちの東魏の孝静帝〉が524年生まれであるため、公主はこの時9歳以下)が澄に降嫁した。

 澄はこのとき12歳と幼かったが、既に大人びた精神を有していた。歓が試しに当今の問題について尋ねてみると、その分析はどれも的を射る物ばかりだったので、以降、国の政治・軍事に全て関与する事を許された。

 公主は容姿・性格共に優れ、万事温和で控えめだった。


○魏出帝紀

〔中興二年夏四月…〕庚寅,加齊文襄王侍中、開府儀同,餘如故。

◯北斉文襄紀

 二年,加侍中、開府儀同三司,尚孝靜帝妹馮翊長公主,時年十二,神情儁爽,便若成人。神武試問以時事得失,辨析無不中理,自是軍國籌策皆預之。

○北斉9文襄元后伝

 文襄敬皇后元氏,魏孝靜帝之姊也。孝武帝時,封馮翊公主而歸於文襄。容德兼美,曲盡和敬。


┃高家醜聞


534年7月高歓孝武帝の対立は極に達し、遂に歓が洛陽に兵を向けた。帝は関中に逃亡し、宇文泰の保護を受けた。歓は洛陽に入城した。

 8月、澄の舅の清河王亶を大司馬とし、尚書省にて皇帝の職務を代行(承制)させた。

 10月、亶の世子の元善見を皇帝とした(東魏の孝静帝)。

 11月、鄴に遷都した。〕


 この年、澄(時に14歳)は使持節・〔并州〕大行台尚書令・并州刺史(并州大行台も并州刺史も歓のお下がり[1]とされた。


535年正月、525年以来、天子を自称して離石以西・安定以東に割拠していた稽胡の劉蠡升を歓が襲擊して大破した。

 3月、奇襲をかけて蠡升を滅ぼした。〕



 澄(時に15歳)は歓が劉蠡升を討伐している間に、歓の側室の鄭氏名は大車、あるいは火車)と密通した。歓は帰還すると、ある下女からこのことを告げられ、更に二人の下女からも証言を得た。歓は激怒して澄に百回の杖打ちを加え幽閉し、その母の婁昭君も隔離して往来を禁じた。


 これより前、歓はもと北魏の孝荘帝の后の爾朱氏爾朱栄の娘)を側室としていたが、その敬い重んずることは王妃の婁昭君以上で、会うときは必ず正装を着、名乗るときは下官(謙称。小官、小生、やつがれ、わたくしめ)と称するほどであった。歓はこの爾朱氏が産んだ高浟を澄に代えて世子にしようとした。澄はそこで尚書左僕射の司馬子如に助けを求めた。子如は歓に会うと、何も知らないふりをして昭君に会いたいと言った。歓がそこで事情を告げて拒否すると、子如はこう言った。

「我が子の消難も私の妾と密通したことがありましたが、このような家庭内の醜聞は秘密にしておくに限ります。そもそも妃は王に輿入れすれば常に父母の家財を投じて王を助け、王が懐朔鎮時代に杖刑を受け完膚無きまでに叩かれれば昼夜つきっきりで看病し、王が葛賊(葛栄)のもとから并州に逃れ貧困に苦しめば、馬糞を燃やして食事を炊き、自ら靴を作りました。この恩義を、どうして忘れることができましょうか⁉ また、妃は王と相性が宜しく、至尊の后となったご息女(長女は孝武帝の、次女は孝靜帝の后となった)や、大業を受け継ぐご子息をもうけられました。また、妃の甥の婁領軍(婁昭)の勲功は揺るがせにできないものであります! そもそも女子とは塵芥のごとき者で、まして下女なら尚更のことです。そのような者の言葉がどうして信じられましょうか!」

 歓はそこで子如に改めて調査するように命じた。子如は澄に会うと、こう叱りつけて言った。

「男子たるもの、威を恐れて無実の罪を認めてはなりませぬ!」

 子如はまず二人の下女に証言を撤回させたのち、密告した下女を脅迫して自ら縊死させた。それから歓にこう上奏して言った。

「果たして、下女どもの言葉は虚言でありました。」

 歓はこれを聞くや大いに喜び、昭君と澄をこの場に呼び寄せた。昭君は遙かに歓に謁えると、一步歩くごとにひざまずいて頭を地に擦り付け、澄も同じようにひざまずいて拝みながら歓のもとに歩み寄った。やがて父子・夫婦は共に泣き合って元通りの関係となった。歓は酒宴を開くとこう言った。

「我が父子の関係を全うしたは、司馬子如である!」

 かくて黄金百三十斤をこれに賜った。また澄も良馬五十頭を贈った。


○魏孝静紀

〔二年〕三月辛酉,以司徒高盛為太尉,以司空高昂為司徒,濟陰王暉業為司空。齊獻武王討平山胡劉蠡升,斬之。…〔三年〕二月丁酉,詔加齊文襄王使持節、尚書令、大行臺、大都督,以鮮卑、高車酋庶皆隸之。

○北斉神武紀

 二年正月,…壬戌,神武襲擊劉蠡升,大破之。

○北斉文襄紀

 天平元年,加使持節、尚書令、大行臺、并州刺史。

○北14彭城太妃爾朱氏伝

 彭城太妃尒朱氏,榮之女,魏孝莊后也。神武納為別室,敬重踰於婁妃,見必束帶,自稱下官。

○北14馮翊太妃鄭氏伝

 馮翊太妃鄭氏,名大車,嚴祖妹也。初為魏廣平王妃。遷鄴後,神武納之,寵冠後庭,生馮翊王潤。神武之征劉蠡升,文襄蒸於大車。神武還,一婢告之,二婢為證。神武杖文襄一百而幽之,武明后亦見隔絕。時彭城尒朱太妃有寵,生王子浟,神武將有廢立意。文襄求救於司馬子如。子如來朝,偽為不知者,請武明后。神武告其故。子如曰:「消難亦姦子如妾,如此事,正可覆蓋。妃是王結髮婦,常以父母家財奉王,王在懷朔被杖,背無完皮,妃晝夜供給看瘡。後避葛賊,同走并州。貧困,然馬屎,自作靴,恩義何可忘?夫婦相宜,女配至尊,男承大業,又婁領軍勳,何宜搖動?一女子如草芥,況婢言不必信。」神武因使子如鞫之。子如見文襄,尤之曰:「男兒何意畏威自誣?」因教二婢反辭,脅告者自縊,乃啟神武曰:「果虛言。」神武大悅,召后及文襄。武明后遙見神武,一步一叩頭,文襄且拜且進,父子夫妻相泣,乃如初。神武乃置酒曰:「全我父子者, 司馬子如。」賜之黃金百三十斤,文襄贈良馬五十疋。


 [1]永熙二年(533)に歓は大行台に任ぜられていたが、天平元年(534)に歓はこれを子の澄に授けていた。また、歓の本拠である晋陽は并州にあったので、并州刺史は重要な役職であった。歓はために澄にこれを授けていたのである(同じく天平元年)


┃高澄入朝

〔歓は晋陽より東魏を統制し、鄴の朝政は澄に任せようとしたが、〕澄(時に16歳)が年少であることを不安視した。しかし丞相主簿の孫搴ケン)の説得を受けると、遂に決心して澄を鄴に向かわせることとした。


536年2月丁酉(26日)、東魏は澄に使持節・大行台(京畿?山東?)尚書令・領左右・京畿大都督の官を加えた[1]。また、鮮卑・高車の酋長・庶長を隷属させた。

 朝廷の人々は澄の器量・見識のあることを耳にしていたが、それでもやはり政治に関してはまだまだ未熟だろうと考えていた。しかし澄が朝政にいざ携わると、法律の施行は厳格で、政令の実行には一つも遅滞を生じさせなかったので、朝廷の内外の人々は驚嘆して認識を改め、謹んでこれを敬うようになった。


 一方、孫搴は今回の功を鼻にかけ、特進にしてくれるよう自ら澄に求めたが、澄はこれを許さず、ただ散騎常侍を加えただけで済ませた。


○魏孝静紀

 三年春二月…丁酉,詔加齊文襄王使持節、尚書令、大行臺、大都督,以鮮卑、高車酋庶皆隸之。…十有二月,以并州刺史尉景為太保。

○北斉文襄紀

 三年,入輔朝政,加領左右、京畿大都督。時人雖聞器識,猶以少年期之,而機略嚴明,事無凝滯,於是朝野振肅。

○北斉24孫搴伝

 世宗初欲之鄴,總知朝政,高祖以其年少,未許。搴為致言,乃果行。恃此自乞特進,世宗但加散騎常侍。


 [1]魏孝静紀ではこの時に澄に使持節・尚書令・大行台・大都督を加えている。北斉文襄紀では天平元年に使持節・尚書令・大行台・并州刺史としている。


┃高澄と崔暹

 これより前、崔暹は歓が洛陽に出兵した時(534年)、高琛を補佐して晋陽の留守を取り仕切った。しかし琛が罪を犯すと連座して罷免された。のち尉景景の妻は歓の姉)が并州刺史となると別駕とされ、澄が并州刺史となると(534年)開府諮議・行并州別駕事とされた。


 ここに至り、澄は崔暹を散騎常侍・左丞・吏部郎・領定州大中正とし、厚く信任した。暹は人材を推挙するのを好み、あるとき澄に邢邵名文家)を府僚にして機密事項に関わらせるよう薦めた。澄はこれを聞き入れて卲を召し寄せ、非常に親任した。

 ある時、卲は澄と会話中に暹の悪口を言った。澄は不快に感じ、暹にこう言った。

「卿は子才の長所を説いたのに、子才(邵の字)は卿の短所ばかり口にする。馬鹿なのではないか?」

 暹は言った。

「子才が言う私の短所も、私の言う子才の長所も、みな事実であります。お嫌いになられないでください。」


○北斉30・北32崔暹伝

〔文襄代景,轉暹為開府諮議,仍行別駕事。從文襄鎮撫鄴都,加散騎常侍,〕遷左丞、吏部郎,〔領定州大中正,〕主議麟趾格。暹親遇日隆,好薦人士,言邢邵宜任府僚,兼任機密,世宗因以徵卲,甚見親重。言論之際,卲遂毀暹。世宗不悅,謂暹曰:「卿說子才之長,子才專言卿短,此癡人也。」暹曰:「子才言暹短,暹說子才長,皆是實事,不為嫌也。」


┃東魏と梁の通好

536年12月、東魏と梁が和平を結んだ。〕


 東魏と梁が友好関係になると、多くの使節が往来したが、その使者は両国とも自慢の俊才を選出した。接客の者も使者と同じく当代最高の俊傑が厳正な審査のもと選び抜かれ、才能と家柄の高くない者は絶対にこれに預かることができなかった。

 梁の使者が鄴に到ると、鄴下は上を下への大騒ぎとなり、高門の子弟は衣服を着飾って見物に赴いた。彼らが使者に贈る礼物は非常に多く、迎賓館の門前が市場のようになるほどであった。歓待の宴が開かれると、尚書令の高澄は必ず左右の者を密かにその場に派して梁の使者と問答させ、一度でもやり込めることができると、手を打って褒め称えた。

 魏使が建康に到った場合も、鄴のそれと同様であった。


壬申(6日)、大司馬の清河王亶孝静帝の父。高澄の正室の父)が逝去した。

 天平四年(537)、正月、歓が西魏に侵攻したが、小関にて竇泰を討ち取られ、撤退した。

 10月、再び西魏に侵攻したが、沙苑にて大敗を喫した。〕


○北43李諧伝

 既南北通好,務以俊乂相矜,銜命接客,必盡一時之選,無才地者不得與焉。梁使每入,鄴下為之傾動,貴勝子弟盛飾聚觀,禮贈優渥,館門成市。宴日,齊文襄使左右覘之,賓司一言制勝,文襄為之拊掌。魏使至梁,亦如梁使至魏。


┃訓戒

元象元年(538)5月、甲戌(16日)、東魏の使者で兼散騎常侍の鄭伯猷が梁に到着した。

 伯猷は帰国すると驃騎将軍・南青州刺史とされた。伯猷は州に赴くと妻(安豊王延明の娘)と共に蓄財に励み、収賄を公然と行なって親戚たちにも恩恵を与えた。〔あまりに収奪が酷かったため、〕農民は逃散し、村落には誰もいなくなった。伯猷は州内の富豪に叛乱の罪を着せ、家財や家人を全て自分のものとし、男性は殺し、女性は奴隷とした。州民たちの怨嗟の声は州境を越えて四方に伝わった。その結果、伯猷は御史の弾劾を受け、数十の罪を列挙されて死罪の判決を受けた。しかし、のちに赦免を受けて死を免れた。

 高澄時に18歳)は朝士たちに訓戒・勉励を行なう際、いつも伯猷と崔叔仁崔㥄の弟。潁州刺史となったが、私鋳を行なうなど汚職行為を繰り返し、御史中丞の高仲密の弾劾を受けて興和年間[539~542]に死を賜った)を悪い見本として引き合いに出した。


8月、西魏の丞相の宇文泰が河橋にて侯景と戦い、敗北を喫した。西魏は洛陽を喪った。〕


○梁武帝紀

 五月甲戌,魏遣使來聘。

○魏56鄭伯猷伝

 元象初,以本官兼散騎常侍使於蕭衍。前後使人,蕭衍令其侯王於馬射之日宴對申禮。 伯猷之行,衍令其領軍將軍臧盾與之相接。議者以此貶之。使還,除驃騎將軍、南青州刺史。在州貪惏,妻安豐王元延明女,專為聚斂,貨賄公行,潤及親戚。戶口逃散,邑落空虛。乃誣良民,云欲反叛,籍其資財,盡以入己,誅其丈夫,婦女配沒。百姓怨苦,聲聞四方。為御史糾劾,死罪數十條,遇赦免,因以頓廢。齊文襄王作相,每誡厲朝士,常以 伯猷及崔叔仁為諭。


┃女漁り

 11月、庚寅? 『北史』には「12月」とある。12月なら5日である)、東魏が陸操字は仲志。北魏の東平王の陸俟の曾孫)を兼散騎常侍とし、梁に使者として派遣した。
 操は高潔な性格をしていて風格があり、早くから学問で優秀さを示して名を知られ、詩文を愛好した。
 操は梁より帰還すると、廷尉卿に任じられた。
 高歓の世子で尚書令の高澄は非常な女好きで、いつも崔季舒に美女を探させていた。ある時、季舒は薛寘孝武帝の西遷に付いていった薛寘の事か?)の妻の元氏に目を付け、〔騙して〕澄のもとに連れて行った。澄が元氏を襲おうとすると、元氏は泣いて拒絶した。〔激怒した〕澄は季舒に〔元氏を〕廷尉のもとに送って処罰させるよう命じた。〔季舒が廷尉卿の操のもとに行って元氏を罰するように言うと、操はこう言った。
「その方はどのような罪を犯したのですか?」
 季舒は答えて言った。
「いいから、わしの言う通りにせよ!」〕
 すると操はこう言った。
「廷尉は国家を代表して法を司っている者です。〔故に、いい加減に人を処罰することはできないのです。〕どうか罪状をはっきりおっしゃってください。」
〔季舒がこれを澄に告げると〕澄は激怒し、操を屋敷に呼びつけた。操がやってくると、澄は刀の柄を以てこれを打ちのめさせた。それから改めて操に〔元氏を〕処罰するよう命じたが、操は最後まで肯んぜず、むしろ澄を罵る度胸を見せた。〔これに感服した澄は操を解放し、元氏の処罰を諦めた。〕のち、操は御史中丞とされた。

○魏孝静紀
 十有一月(十二月)庚寅【[一四]北史卷五「十一月」作「十二月」。按本年十一月丙辰朔,無「庚寅」,十二月丙戌朔,庚寅是五日,似北史是。但這裏若本是「十二月」,則下文不應又出「十二月甲辰」。且梁書卷三武帝紀大同四年即東魏元象元年五三八記「十一月乙亥,魏使來聘」。乙亥是二十日。豈有十二月遣使,十一月已抵梁朝之理。則北史作「十一月」也有可疑,今不改。】,遣陸操使于蕭衍。
○北28陸操伝
〔陸〕高貴子操,字仲志,高簡有風格,早以學業知名,雅好文。操仕魏,兼散騎常侍聘梁,使還,為廷尉卿。齊文襄為世子,甚好色,崔季舒為掌媒焉。薛氏寘書妻元氏有色,迎入欲通之。元氏正辭,且哭。世子使季舒送付廷尉罪之。操曰:「廷尉守天子法,須知罪狀。」世子怒,召操,命刀環築之,更令科罪。操終不撓,乃口責之。後徙御史中丞。

 ⑴崔季舒…字は叔正。?~573。名門博陵崔氏の出。読書家で、事務仕事や医術に長じた。音楽や女色を好んだ。東魏の丞相の高澄の腹心で、澄の意を汲んで勲貴を弾圧した。澄が殺されると勲貴の反撃に遭い、流刑に遭ったが、のち文宣帝に赦され、重用を受けた。帝の死後は不遇をかこったが、武成帝が即位すると、過去に病気を治療した縁を以て重用を受けた。のち胡長仁に讒言されて地方に左遷されたが、帝の死後中央に復帰し、侍中・待詔文林館とされ、御覧の編纂に関わった。のち特進・監国史とされた。学問を好み、その発展に力を尽くしたため、大いに称賛を受けた。573年、後主の側近たちと対立し、讒言を受けて殺された。573年(4)参照。


┃高澄の人心収攬

 この年(538年)、東魏が澄を摂吏部尚書とした。
 澄は崔亮が始めた年労の制(停年格、519年2月参照)を改め、賢能の士を優先して登用するようにした。また、尚書郎(尚書省の吏員)に対しても、人員整理を行ない、才能・門地をよく調べてこれに充てるようにした。ここにおいて才能のある者はみな任用されるに至った。
 彼らの内まだ高官になれず、〔不満を抱いていそうな者がいれば、〕ことごとく自分の邸宅に呼んで賓客とし、宴会を開く際には必ず招待し、弓や議論、詩賦などそれぞれの得意なものを披露させて心を満足させた。このため、士大夫の誰もが澄を称賛するようになった。

 東魏が都を鄴に遷して以降(534年10月)、吏部尚書に就いて知名度があった者は四名(高澄〈在位538~?〉・楊愔〈在位546~552〉・辛術〈在位552~559〉袁叔徳〈在位574~577〉)ほどいたが、それぞれ一長一短あり、完全ではなかった。高澄在位538~?)は若さゆえの闊達さがあったが、そのぶん大雑把な所があった。

○資治通鑑
 東魏以高澄攝吏部尚書,始改崔亮年勞之制【崔亮制停年格】,銓擢賢能;又沙汰尚書郎,妙選人地以充之。凡才名之士,雖未薦擢,皆引致門下,與之遊宴、講論、賦詩,士大夫以是稱之史言高澄收拾人物以傾元氏】。
○北斉文襄紀
 元象元年,攝吏部尚書。魏自崔亮以後,選人常以年勞為制,文襄乃釐改前式,銓擢唯在得人。又沙汰尚書郎,妙選人地以充之。至于才名之士,咸被薦擢,假有未居顯位者,皆致之門下,以為賓客,每山園游燕,必見招擕,執射賦詩,各盡其所長,以為娛適。
○北斉38辛術伝
 遷鄴以後,大選之職,知名者數四,互有得失,未能盡美。文襄帝少年高朗,所弊者疏。

 [1]高澄は士大夫の心を自分に移す事で、東魏を滅亡に追いやろうとしたのである。


┃華林遍略

 ある時、〔梁経由で?〕《華林遍略》を売りに来た者があった。澄は〔これを買うと、〕大勢の人を集めて一日で全て書き写させた。それから、素知らぬ顔で返却してこう言った。

「要らぬ。」

 秘書丞・中書舍人の祖珽はこのとき書き写してできた遍略のうち数冊を勝手に質に出し、樗蒲の賭け金にした。澄は怒り、珽に四十の杖打ちを加えた。


○北斉39祖珽伝

 後為秘書丞,領舍人,事文襄。州客至,請賣華林遍略。文襄多集書人,一日一夜寫畢,退其本曰:「不須也。」珽以遍略數帙質錢樗蒲,文襄杖之四十。


 ⑴華林遍略...梁の武帝が徐勉らに編纂させた類書。全620巻。八年の歳月をかけ、516年に完成した。これまでの書籍の記述を項目別にまとめ、検索の便を図った。

 ⑵祖珽…字は孝徴。名門の范陽祖氏の出。名文家。頭の回転が早く、記憶力に優れ、音楽・語学・占術・医術などを得意とした。人格に問題があり、たびたび罪を犯して免官に遭ったが、そのつど溢れる才能によって復帰を果たした。文宣帝時代には詔勅の作成に携わった。文宣帝が死ぬと長広王(上皇)に取り入り、王が即位すると重用を受けた。565年、太子(後主)の地位や生命の保全のために太子に帝位を譲るよう勧めた。太子が即位して後主となると秘書監とされた。のち和士開を讒言したが失敗して光州に流され、長い牢屋生活の内に盲目となった。569年、士開に赦されて政界に復帰し、秘書監とされた。士開が死ぬと後宮の実力者の陸令萱に擦り寄り、572年、そのコネによって左僕射とされた。間もなく斛律光や高元海を排除して政治・軍事の実権を握った。間もなく陸令萱ら寵臣の排除を目論み、胡后一派と手を組んだが失敗し、中央から追放されて北徐州刺史とされた。573年(2)参照。

 ⑶樗蒲…遊戯の一つ。片面が黒、片面が白に塗られた五枚の平たい板を盤上に投げ、出た組み合わせによって勝負を決める。


┃麟趾新制の制定

興和三年(541)〕、秋、7月、澄(時に21歳)が晋陽に赴いた。

 冬、10月、癸卯(5日)、晋陽より鄴に帰還した。


 これより前、東魏の都が鄴に遷ってより、人民の訴訟は頻繁に起こされるようになっていたが、政府が法律を改めたと思えば後日もとに戻す無軌道な事を繰り返していたので、法吏たちは寄る辺を失い、採決に困った案件の書類が山積みになってしまっていた。そこで孝静帝時に18歳)は澄に対し、左丞・吏部郎の崔暹を中心にして、侍中の封隆之、光禄大夫の邢子才)や散騎常侍の温子昇名文家)らと共に宮中の麟趾閣にて新しい法制を制定するよう命じていた。


 甲寅(16日)、『麟趾新制』(またの名を『麟趾格』という)十五篇が完成し、天下に公布した。省府(中央の官庁)はこれによって案件を処理し、州郡もこれを行政の手本として用いた。


○魏孝静紀

 秋七月,齊文襄王如晉陽。…冬十月癸卯,齊文襄王自晉陽來朝。先是,詔文襄王與羣臣於麟趾閣議定新制,甲寅,班於天下。

○北斉21封隆之伝

 詔隆之參議麟趾閣,以定新制。

○北斉30崔暹伝

 主議麟趾格。

○洛陽伽藍記三景明寺

 暨皇居徙鄴,民訟殷繁,前革後沿,自相與奪,法吏疑獄,簿領成山,乃敕子才與散騎常侍溫子升撰《麟趾新制》十五篇。省府以之決疑,州郡用為治本。


┃高孝琬の誕生

 孝静帝の妹で澄の正室の馮翊長公主高孝琬澄の第三子)を産んだ。大臣たちが澄のもとに訪れて祝いの言葉を述べると、澄はこう言った。

「この子は至尊(孝静帝)の甥なのであるから、まず至尊に祝いの言葉を述べるべきであろう。」

 三日後、帝が親しく澄の屋敷に訪れ、錦彩布絹一万疋を下賜すると、澄はこれを辞退し、代わりに貴族たちから礼物を受け取る許可を求め、許された。ここに至って貴族たちは相次いで礼物を澄に送った。その数は十部屋を埋め尽くすほどだった(資治通鑑がこの記事を541年の終わりに置いている理由は不明)。


○資治通鑑

 東魏尚書令高澄尚靜帝妹馮翊長公主,生子孝琬,朝貴賀之,澄曰:「此至尊之甥,先賀至尊。」三日,帝元善見幸其第,賜錦綵布絹萬匹。於是諸貴競致禮遺,貨滿十室。

○北斉文襄元后伝

 初生河間王孝琬,時文襄為世子,三日而孝靜帝幸世子第,贈錦綵及布帛萬疋。世子辭,求通受諸貴禮遺,於是十屋皆滿。


 

 北斉文襄(高澄)紀⑵に続く