[西魏:大統十一年 東魏:武定三年 梁:大同十一年]

┃高歓暗殺計画
 東魏の開府儀同三司の爾朱文暢爾朱栄の第四子。歓の側室の爾朱氏の弟)・丞相府司馬の任胄任祥〈勲貴の一人。徐州刺史。538年秋に亡くなった〉の子)・都督の鄭仲礼歓の側室の鄭大車〈高澄に迫られ、関係を持った。535年(1)参照〉の弟。歓の弓矢の管理を任され、常にその外出に付き従った)・中府主簿の李世林・前開府参軍の房子遠房謨の前妻の子)らが酒盛りと称して集まり、密かに丞相高歓時に50歳)の暗殺計画を練った。
 鮮卑は正月十五日の夜に、いつも『打簇(或いは打竹簇、竹束を打つ?)』という遊びを行なっていた。この遊びにて〔竹束に?〕良く命中させた者には、すぐさま絹が賞品として与えられた。
 任冑は鄭仲礼に言った。
「歓がこれを見にやって来た所を【天平四年(537)の正月に十五日の遊戯は禁止されていたが、これを見るにそれはすぐに緩められたのだろう】、袴の中に隠した刀で殺すのだ。」
 事が成就した暁には、文暢を君主とすることも取り決められた。
 しかし任氏の食客の薛季孝なる者がこれを歓に密告した。歓がそこで文暢らを捕らえて厳しく尋問した所、みな罪を白状した《北斉48爾朱文暢伝》
 春、正月、甲午(15日)、歓はそこで文暢らを死刑に処した(文暢、享年18)。

 任冑は男伊達を好み、非常に聡明で、幼い時から歓に近侍した。天平年間(534~537)に抜擢されて東郡太守とされた。家はもともと豊かであったが、冑は更に蓄財に励んだため、生活は豪華を極め、賓客が来れば厚いもてなしをした。間もなく汚職の罪で弾劾を受けたが、歓によって赦され、離職ののち都督とされた。興和の末(542)、歓は玉壁を攻めて失敗すると、晋州を重要視するようになり、清河公の高岳歓の従父弟)を行台としてその守備をさせ(北斉13高岳伝には『武定元年(543)に晋州刺史・西南道大都督とされた』とある)、これに冑を付けた。しかし冑は酒を飲んで遊んでばかりいて守備の任務を疎かにしたので、歓に叱責された。すると冑は恐懼し、密かに西魏とよしみを通じるようになった。のち人に糾弾を受けて厳しく身辺を調査されたが、確たる証拠は見つからなかった。歓はそこで特別に冑を放免したが、その時に冑にこう言った。
「真心を以て人に接するのがわしの信条だが、卿はそうではない。黒獺(西魏)からの投降者が相次いでいる今、卿の虚実が明らかになる日も近いだろう。」(原文『「我推誠於物、謂卿必無此理。且黒獺降人、首尾相継、卿之虚実、於後何患不知。」』
 冑はこれより不安を感じるようになり、今回の一件を引き起こしたのだった。
 冑が誅殺に遭って、それがまだ屋敷に伝えられていなかった時、家人の一人がせいろの上に突然冑の首が現れたのを見た。〔彼が驚いて〕他の者を呼び集めてこれを見せたところ、首は間もなく忽然と消え失せてしまった。家人たちが冑の誅殺を知ったのは、そのすぐ後のことだった。

 鄭仲礼の姉で歓の側室の鄭大車は、家族へ連座を及ぼすのを歓にやめさせようとしたが、避けられて会うことができなかった。そこで正室の婁昭君537年〈3〉参照)と息子の高澄が大車の代わりに訴えると、歓はとうとうこれを了承した。
 また、文暢の姉の爾朱氏爾朱栄の娘。もと孝荘帝の后。535年〈1〉参照)も大車と同じく歓の側室として寵愛を受けていたため、爾朱氏への連座も取りやめとなった《北斉48爾朱文暢伝》
 房子遠は〔幼くして〕品行が悪かったため、父の房謨から勘当を受けていた。謨の後妻の盧氏がこの事を訴えると、歓はこれを聞き入れて謨を責めた。謨はそこで子遠の悪い所を述べ立てたが、歓はこれを信用せず、子遠を手元に引き取って育て、自分の息子たちと同じ教育を受けさせたのち、謨のもとに返した。計画の発覚後、歓は感嘆してこう言った。
「『父ほど子の事を知っている者は無い』(子を知ること父に如くは莫し。『管子』大匡)とは、まことの事だ!」
 歓はそこで孝静帝時に22歳)にこう上奏して言った。
房謨・鄭述祖・李道璠の三家は連座にかけるのが道理ですが、謨は忠謹潔白であり、述祖は厳祖の庶子の仲礼を最近になって引き取っただけであり、道璠は世林を養子として育てていただけであります。ここは罪を犯した三人(子遠・仲礼・世林)だけに処罰を留めるべきだと考えます。」
 帝はこれを許した《北55房子遠伝》
 文暢の計画が明るみに出る前、これを知った中外府帳内都督の綦連猛もと爾朱氏に仕えて信任され、爾朱氏が滅ぶと歓に仕え、同じように信任を受けた。533・543年〈1〉参照)はこう言っていた。
「わしはむかし文暢の父兄に仕え〔て恩を受け〕た。たとえ死ぬことになろうとも、密告してこれを殺すような真似はせぬ。」
 発覚後、歓はこれを人から聞いてこう言った。
「人に仕える者は、こうでなくてはならぬ。」
 かくて計画を隠匿した罪を赦し、ますます目をかけるようになった《北53綦連猛伝》

 丙申(17日)、東魏が兼散騎常侍の李獎を梁に派遣した《魏孝静紀》

○北斉神武紀
 三年正月甲午,開府儀同三司尒朱文暢、開府司馬任冑、都督鄭仲禮、中府主簿李世林、前開府參軍房子遠等謀賊神武,因十五日夜打簇,懷刃而入,其黨薛季孝以告,並伏誅。丁未,神武請於并州置晉陽宮,以處配口。
○魏56鄭恭業伝
 子恭業,襲爵。武定三年,坐與房子遠謀逆,伏誅。
○北斉19任冑伝
 冑輕俠,頗敏惠。少在高祖左右,天平中,擢為東郡太守。家本豐財,又多聚斂,動極豪華,賓客往來,將迎至厚。尋以贓污為有司所劾,高祖捨之。及解郡,高祖以為都督。興和末,高祖攻玉壁還,以晉州西南重要,留清河公岳為行臺鎮守,以冑隸之。冑飲酒遊縱,不勤防守,高祖責之。冑懼,遂潛遣使送欵於周。為人糾列,窮治未得其實,高祖特免之,謂冑曰:「我推誠於物,謂卿必無此理。且黑獺降人,首尾相繼,卿之虛實,於後何患不知。」冑內不自安。是時,儀同尒朱文暢及參軍房子遠、鄭仲禮等並險薄無賴,冑厚與交結,乃陰圖殺逆。武定三年正月十五日,因高祖夜戲,謀將竊發。有人告之,令捕窮治,事皆得實。冑及子弟並誅。
○北35鄭仲礼伝
 庶子仲禮,少輕險,有膂力。齊神武嬖寵其姊火車,以親戚被昵,擢為帳內都督。掌神武弓矢,出入隨從。與任冑俱好酒,不憂公事,神武責之。冑懼,潛通西魏,為人糾告,懼,遂謀逆。事發,火車欲乞哀,神武避不見。賴武明皇后及文襄爭為言,故仲禮死而不及其家。
○三国典略327
 東魏丞相司馬任胄,謀殺高歡,事洩伏誅。其家未之知。家內忽見其頭在飯甑上,相召看之,少頃,失所在。俄知被戮。

●東魏、吐谷渾と関係を深める
 歓が上書して言った。
「并州は軍需物資が必要となる場所でありますゆえ、必然的に女手が必要となります(裁縫・機織りなど《出典不明》。晋陽に離宮を建て、罪を犯して奴隷とされた女たちをそこに集め、働かせることをお許しください(北斉神武紀)。また、吐谷渾と友好関係を築くために、その娘を側室に納れていただくことをお許しください。」【歓は西魏の西南にある吐谷渾国と友好関係を結ぶことによって、西魏侵攻の助力を頼もうとしたのである
 丁未(28日)、晋陽宮を建てた《出典不明》
 2月、庚申(11日)孝静帝が吐谷渾可汗(夸呂)の従妹を後宮に納れ、容華嬪(北魏では側室に左右昭儀・三夫人・三嬪・六嬪・世婦・御女の位階を設けた)とした《魏孝静紀》

●突厥の登場

 西魏の丞相の宇文泰時に39歳)が酒泉胡の安諾槃陁を使者に遣り、突厥(トックツ。厥は『九勿(キュウ+フツ=クツ)』の反切である。連年西魏の綏州に来寇していた。542年参照)と初めて国交を通じた(周50突厥伝では『大統十一年』の事としか書かれていない)。
 突厥はもともと西方の小国であり、酋長の姓を阿史那といい、出自は匈奴の別種の平涼の雑胡と推測される。北魏の太武帝が沮渠氏(北涼)が滅ぼすと(439年)、五百家を引き連れて柔然に仕え、代々金山(アルタイ山脈。現モンゴルの西境)の南を住処とし、鉄の鋳造を任されていた。のち土門の代になって初めて強盛となり、頻繁に西魏の西辺を侵した。安諾盤陀が到着すると、突厥の人々は口々にこう言って喜び合った。
「大国から使者が来るとは、我が国が盛んとなるのももう少しだ。」

 突厥の祖先は西海(咸海、アラル海)の西を住処とし、単一の部落を形成した。近隣の部落との戦いに敗れて部族を根絶やしにされたが、十歲の子どもだけは年少ということで殺されず、手足を斬られたのち沢の中に捨てられた。ただ、雌の狼が子どもの所にやってきては肉を与えたため、死なずに済んだ。子どもは成長すると狼と交わって孕ませた。その時、以前突厥の部落を滅ぼした王がその健在を聞きつけ、人を遣ってこれを殺させた。暗殺者はそばにいた狼も殺そうとしたが、そのとき神の助けか一陣の大風が吹き、狼を西海の東に舞い飛ばした。高昌国の西北の山(アルタイ山脈)に落ちた狼は、そこにあった洞穴の中に身を隠した。そこは数百里の円形で、平坦で、草が繁茂していた。狼はここで十人の男児を産んだ。男児は成長すると外に出かけて妻を娶り、孕ませた。その後裔たちはそれぞれ姓を名乗ったが、阿史那を名乗った者が一番賢かったため、酋長となった。突厥が本陣に狼の頭を刺繍した大旗を建てるのは、その来源を忘れぬようにするためである。のち次第に数を増やして数百家となり、数代後に阿賢設という者が全部落を率いて穴の中より出て、柔然に仕えた。のち大葉護の代になって、突厥はいよいよ強盛となった。
 また、ある説によれば、突厥はもともと平涼の雑胡であり、北魏の太武帝が沮渠氏を滅ぼした際に五百家を以て柔然のもとに逃れたという。居を構えた金山の形が兜の形に似ており、彼らは兜の事を突厥と呼んでいたため、自分たちの国号を突厥としたという。
 また、ある説によれば、突厥の祖先は匈奴の北にある索国より生まれ出でたのだという。その部落大人は阿謗步といい、十七(七十?)人の兄弟がいた。その一人の伊質泥師都は、狼より生まれた者だった。阿謗步らはみな愚昧だったため、遂にその部落を滅ぼすに至った。ただ、泥師都のみ異気を感じ取って風雨を呼ぶことができ、夏神と冬神の娘だという二人の女を妻として四男を産ませた。一人は白鴻(白い大きな鳥)に変じ、一人は阿輔水と剣水の間に契骨という国を建て、一人は処折水に国を建て、一人は践(跋?)斯処折施山に住んだ。これが大児である。山上には阿謗步の子孫たちがいて、寒気に苦しんだが、大児が火を起こしてこれを暖めたため、みな生き残ることができた。諸子たちはそこで大児を主君とし、国号を突厥とし、大児を納?都六設と呼んだ。都六には十人の妻がおり、生まれた子どもはみな母方の姓を名乗った。阿史那は一番末の妻の子であった。都六が死ぬと十人の男児たちは自分たちの中から一人を選んで主君にすることにし、大樹の下に集まって、共にこう誓いの言葉を立てて言った。
「この大樹に向かって一番良く跳べた者を主君としよう。」
 阿史那は幼かったが、一番良く跳ぶことができた。かくて諸子は遂にこれを主とし、阿賢設と呼んだ。この説は特殊だが、狼の種族であることには変わりはない。

○周50・隋84突厥伝
 突厥者,蓋匈奴之別種(平涼雜胡也),姓阿史那氏。別為部落。〔後魏太武滅沮渠氏,阿史那以五百家奔茹茹,世居金山,工於鐵作。或云,其先國於西海之上,〕後為鄰國所破,盡滅其族。有一兒,年且十歲,兵人見其小,不忍殺之,乃刖其足〔斷臂〕,棄草澤中(大澤中)。有〔一〕牝狼以肉飼之(每啣肉至其所,此兒因食之),〔得以不死。〕及長,與〔遂與〕狼合(交),遂有孕焉。彼王(鄰國者)聞此兒尚在,重遣殺之(復令人殺此兒)。使者見狼在側,並欲殺狼。狼遂逃于高昌國之北山(其狼若為神所憑,歘然至於海東,止於山上。其山在高昌西北〈於時若有神物,投狼於西海之東,落高昌國西北山〉)。山〔下〕有洞穴,穴內有平壤茂草,周回數百里(地方二百餘里),四面俱山。狼匿其中,遂生十男。十男長大,外託妻孕,其後各有一姓,阿史那即一也。〔最賢,遂為君長,故牙門建狼頭纛,示不忘本也。〕子孫蕃育,漸至數百家。經數世,〔有阿賢設者,率部落〕相與出穴,臣於茹茹。居金山之陽,為茹茹鐵工。金山形(狀)似(如)兜鍪,其俗謂()兜鍪為「突厥」,遂因以為號焉。〔至大葉護,種類漸強。
 或云突厥之先出於索國,在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步,兄弟十七(七十)人。其一曰伊質泥師都,狼所生也。謗步等性竝愚癡,國遂被滅。泥師都既別感異氣,能徵召(占)風雨。娶二妻,云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻;其一國於阿輔水、劍水之間,號為契骨;其一國於處折水;其一居踐斯處折施山,即其大兒也。山上仍有阿謗步種類,竝多寒露。大兒為出火溫養之,咸得全濟。遂共奉大兒為主,號為突厥,即訥都六設也。訥都六有十妻,所生子皆以母族為姓,阿史那是其小妻之子也。訥都六死,十母子內欲擇立一人,乃相率於大樹下,共為約曰,「向樹跳躍,能最高者,即推立之。」阿史那子年幼而跳最高者,諸子遂奉以為主,號阿賢設。此說雖殊,然終狼種也。
 其後曰土門,部落稍盛,始至塞上市繒絮,願通中國。大統十一年,太祖遣酒泉胡安諾槃陁使焉。其國皆相慶曰:「今大國使至,我國將興也。」

┃崔暹顕彰
 3月、乙未(16日)、歓が鄴の朝廷に赴いた《北斉神武紀》。百官は鄴から五百里西北の紫陌にてこれを出迎えた。歓は御史中尉の崔暹澄の腹心。司馬子如ら勲貴を弾劾した。544年〈1〉参照)の手を握り、労をねぎらって言った。
「これまでにも朝廷に法官はいたが、天下に汚職がはびこっても何もしようとしなかった。しかし中尉は国のために心を尽くし、どんなに権勢の盛んな者でも恐れることなく弾劾したので、天下は全く粛然となり、百官はみな法を遵守するようになった。わしは先頭に立って敵陣を陥とす者はいくらでも見てきたが、百官の風紀を一変させた者は初めて見た。愚息(高澄)は重大な任務を任されながら才能はこれに見合わず、中尉がいなければ今日の成功は成し得なかったに違いない。我ら父子ではこれにどう報いていいものか分からぬゆえ、褒賞は中尉の取るに任せる。」
 かくて暹に一頭の良馬を与えてその上に乗せ、話を交わしながら鄴に向かった。〔鄴に到着して〕暹が馬から下りて歓に拝礼をした時、乗っていた馬が突然暴れて逃げ出した。すると歓は自らこれを制止し、端綱(はづな、馬の口につけて引く綱)を取って暹に与えた。
 孝静帝が華林園にて宴を開くと、歓にこう言った。
「近ごろ朝貴・牧守令長・下級役人に至るまで、貪汚の風がはびこり、人民を搾取すること甚だしい。王よ、〔ここはその風紀を改めるためにも〕朝廷の中で心配りが公平で、直言弾劾を行ない、王族や重臣ですら憚らぬ者に酒を勧めるがよい。」
 歓は階段から降り、跪いてこう言った。
「それに当てはまる者は、御史中尉の崔暹ただ一人であります! 謹んで御旨を承りまするが、敢えてここは酒だけでなく、臣が先ほど宴射で賜った千段の絹も暹に転じてお与えになるよう願い申し上げます。」
 帝はこれを許した。ここにおいて高澄時に25歳)が暹に酒を勧め、歓は彼のために抃舞(ベンブ、手を打って踊る舞)を舞った。帝は暹にこう言った。
「崔中尉が法を執行すると、僧俗ともに粛然となった。」
 暹は拝謝して言った。
「これは全て、陛下の教化と、これを押し広めた大将軍臣澄の努力の賜物であります。」
 澄は退出すると、暹にこう言った。
「私ですら敬服しているのだから、他の者なら尚更そうであろう!」

○北斉30・北32崔暹伝
 高祖如京師,羣官迎於紫陌。高祖握暹手而勞之曰:「往前朝廷豈無法官,而天下貪婪,莫肯糾劾。中尉盡心為國,不避豪強,遂使遠邇肅清,羣公奉法。衝鋒陷陣,大有其人,當官正色,今始見之。〔小兒任重才輕,非中尉何有今日?〕今榮華富貴,直是中尉自取,高歡父子,無以相報。」賜暹良馬,使騎之以從,且行且語。暹下拜,馬驚走,高祖為擁之而授轡。魏帝宴於華林園,謂高祖曰:「自頃朝貴、牧守令長、所在百司多有貪暴,侵削下人。朝廷之中有用心公平,直言彈劾,不避親戚者,王可勸酒。」高祖降階,跪而言曰:「唯御史中尉崔暹一人。謹奉明旨,敢以酒勸,並(并)臣所射賜物千疋(段),乞回賜之。」〔於是文襄亦催暹酒,神武親為之抃。文襄退,〕帝曰:「崔中尉為法,道俗齊整。」暹謝曰:「此自陛下風化所加,大將軍臣澄勸奬之力。」世宗退謂暹曰:「我尚畏羨,何況餘人。」〔神武將還晉陽,又以所乘馬加綵物賜暹。〕由是威名日盛,內外莫不畏服。

┃妖艶、元玉儀
 しかし、暹は真面目一辺倒ではなく、悪賢い部分も多く持ち合わせていた《資治通鑑》
 これより前、東魏の高陽王斌字は善集。高陽王雍〈北魏の丞相。河陰の変にて爾朱栄に殺された。528年(3)参照〉の孫。眉目秀麗で、謙虚で穏やかな性格をしており、慎み深く仕事に当たったので、澄にいたく気に入られた)の庶妹の元玉儀は、〔妾の子ゆえに〕一族から排斥され(原文『初不見齒』。通鑑『不為其家所歯)、孫騰四貴の一人。歓に早くから従い、懐刀として活躍した。544年参照)の妓女とされたが、そこでも見捨てられてしまっていた。
 高澄は道中にて彼女と出会って一目惚れし、側室とした。澄は彼女にひどく熱を上げたが、そのぞっこんぶりは、帝に無理を言って琅邪公主に封ぜさせるほどだった[1]。澄は崔季舒澄の腹心で、孝静帝にも信頼され、「我が乳母である」と言わしめた。544年参照)にこう言った。
「お前はいつも私のために美女を探してくれていたが(538年〈2〉参照)、結局、私自身が見つけた絶世の美女が一番だったな。崔暹はきっと諌めてくる()だろうが、なに、対処の方法は考えてある。」
 果たして暹が諌めに来ると、澄は不快な表情や態度を見せ〔てその機先を制し〕た。三日後、暹はわざと自分の名刺を澄の前に落とした。澄はこれを訝しく思って言った。
「何用のものだ?」
 暹は驚いた振りをして言った。
「〔絶世の美女と噂の〕公主に一目会いたいと思いまして。」
 澄はこれを聞くや相好を崩し、その手を取って玉儀と引き合わせ〔て自慢し〕た。季舒は人にこう言った。
「暹はいつもわしをおべっか使いだと怒って、大将軍の前で事あるごとに『叔父を殺すべきだ』と言っているが、おべっかなら暹の方が凄いではないか!」

 澄はのち(547〜549)、玉儀(王昭儀とあるが、恐らく玉儀のことであろう)を愛するあまり、孝静帝の妹の馮翊長公主541年参照)に代えて彼女を正室にしようとまで考えた。暹はこれを諫めて言った。
「天命(人心)はまだ魏にありますし、馮翊長公主も何か過ちを犯したわけではございませぬゆえ、受け入れないかと思います。」
 澄はなかなか聞き入れようとしなかったが、暹が食い下がると、とうとう事を諦めた。

○資治通鑑
 然暹中懷頗挾巧詐。初,魏高陽王斌有庶妹玉儀,不為其家所齒,為孫騰妓,騰又棄之;高澄遇諸塗,悅而納之,遂有殊寵【白居易詩云:天下無正色,悅目卽為姝。誠有是事。蓋玉儀所乏者非色,必妖媚善蠱惑,故所如衆女謠諑而不見容】,封琅邪公主。澄謂崔季舒曰:「崔暹必造直諫,我亦有以待之。」及暹諮事,澄不復假以顏色。居三日,暹懷刺墜之於前【《續世說》:古者未有紙,削竹木以書姓名,謂之刺。後以紙書,謂之名紙。唐李德裕貴盛,人務加禮,改具銜候起居之狀,謂之門狀】。澄問:「何用此為?」暹悚然曰:「未得通公主。」澄大悅,把暹臂,入見之。季舒語人曰:「崔暹常忿吾佞,在大將軍前,每言叔父可殺;及其自作,乃過於吾。」
○北14琅邪公主伝
 琅邪公主名玉儀,魏高陽王斌庶生妹也。初不見齒,為孫騰妓,騰又放棄。文襄遇諸途,悅而納之,遂被殊寵,奏魏帝封焉。文襄謂崔季舒曰:「爾由來為我求色,不如我自得一絕異者。崔暹必當造直諫,我亦有以待之。」及暹諮事,文襄不復假以顏色。居三日,暹懷刺,墜之於前。文襄問:「何用此為?」暹悚然曰:「未得通公主。」文襄大悅,把暹臂入見焉。季舒語人曰:「崔暹常忿吾佞,在大將軍前,每言叔父合殺。及其自作體佞,乃體過於吾。」玉儀同產姊靜儀,先適黃門郎崔括,文襄亦幸之,皆封公主。括父子由是超授,賞賜甚厚焉。
○北32崔暹伝
 文襄盛寵王昭儀【[四六]按「 王昭儀」當是玉儀之誤,見本書卷十四齊文襄敬皇后傳。高澄未曾為帝,其妾不得有昭儀之號】,欲立為正室,暹諫曰:「天命未改,魏室尚存,公主無罪,不容棄辱。」文襄意不悅,苦請乃從之。

 [1]白居易の詩(議婚)にある『人間無正色(人に本当の美人などいない)、悦目即為姝(見た目が良ければそれは美人となる)。』とは、まことにこの事を指している。玉儀は容色に乏しい者ではなく、美人で、妖しい色香を以て人の心を惑わした者だった。だからこそ女たちに妬まれ、中傷を受けて排斥されたのであろう。

●至公無私の精神に還れ
 この月宇文泰が領内に布令を下して言った。
『古の帝王が外に諸侯、内に百官を置いたのは、彼らを富貴尊栄に導くためではなく、広大で、一人では手に余る天下を統治するにあたって、良き補佐を得るためであった。ゆえに諸侯や百官には賢才が選ばれ、相応の礼を以て任命を行なった。賢人は任命を受けると、〔事の重大さに〕心を痛めてこう言った。「人の委託を受ければ、必ずその人のために骨を折らなければならぬ。〔こたびの場合は更にその上を要求される。〕どうして己を捨ててまで人に尽くせようか。」一方、自分を励ましてこう言った。「天が俊傑を生じさせるのは、その時の天下をより良くするためである。いま、人主が天下の統治の補佐に私を選んだというのに、どうして〔天意に逆らって〕辞退などできようか。」かくて己を捨てて任命に応じたのだった。賢人は職務にあたっては昼は食事、夜は睡眠をとっても満足せず、心はいつもいかに人主の補佐し、人民を安撫するかということばかりに向けられ、我が身や家族の事には気が行かず、妻子が飢寒の苦しみに遭っても目もくれなかった。賢臣がこのようであったからこそ、人主はこれに俸禄や官位を与えても恩情をかけたとは考えず、賢臣はこれらを受けても感謝の念を覚えることがなかった。かくて官位も俸禄もむやみに加えられることなく、適正な所に落ち着いたのである。人君たる者がこの法則を以て〔正当な〕官位を授け、人臣たる者がこの心を以て〔正当な〕官位を受ければ、天下はいくら広大であろうとも、自然に治まるであろう。むかし堯・舜が人君となり、稷・契が人臣となった際、彼らはみなこの法則を用いたのである。しかし、後世になって衰微するとこの法則は守られなくなり、官職は私的な恩典となり、爵禄は個人を富貴にさせるだけのものに成り下がった。かくて人君は親しい者や愛する者に官位を授けるようになり、人臣も富貴になる目的で、邪道―わざと自分を犠牲にして他人に利益を与えたり、巧みに言葉を飾り立てて〔任官を?〕辞退する―を用いてこれを求めるようになった。ここにおいて公平無私の道は断たれ、嘘やごまかしが次々と行なわれるようになった。天下が治まらなくなったのは、まさにこのためであった。
 いま聖主(文帝)は中興するにあたり、このような浮薄虚偽の風潮を一掃しようと考えておられる。諸官は職務の遂行の困難さと、過失が災いを招くことを念頭に置いて、深い穴に臨んだ時のように、薄い氷を踏んだ時のように、日夜恐々として職務に当たらねばならない。職務に堪えうる才能の持ち主であれば、己の行ないを間違いなくしてこれに当たれ。そうでない者は、堪えないことを受け入れてこれを避けよ。官職や爵位をむやみに授けたり受けたりするような事が無くなれば、いにしえの淳朴な気風に還せる日も近いであろう。』(原文『古之帝王所以外建諸侯內立百官者、非欲富貴其身而尊栄之、蓋以天下至広、非一人所能独治、是以博訪賢才、助己為治。若其知賢也、則以礼命之。其人聞命之日、則惨然曰:「凡受人之事、任人之労、何捨己而従人。」又自勉曰:「天生俊士、所以利時。彼人主者、欲与我為治、安可苟辞。」於是降心而受命。及居官也、則晝不甘食、夜不甘寝、思所以上匡人主、下安百姓;不遑恤其私而憂其家,故妻子或有饑寒之弊而不顧也。於是人主賜之以俸禄、尊之以軒冕、而不以為恵也。賢臣受之,亦不以為徳也。位不虚加、禄不妄賜。為人君者、誠能以此道授官、為人臣者、誠能以此情受位、則天下之大、可不言而治矣。昔堯・舜之為君、稷・契之為臣、用此道也。及後世衰微、此道遂廃、乃以官職為私恩、爵祿為栄恵。人君之命官也、親則授之、愛則任之。人臣之受位也、可以尊身而潤屋者、則迂道而求之;損身而利物者、則巧言而辞之。於是至公之道没、而姦詐之萌生。天下不治、正為此矣。今聖主中興、思去澆偽。諸在朝之士、当念職事之艱難、負闕之招累、夙夜兢兢、如臨深履薄。才堪者、則審己而当之;不堪者、則收短而避之。使天官不妄加、王爵不虛受、則淳素之風、庶幾可反。』《周文帝紀》

 夏、4月、東魏の使節(李獎?)が建康に到着した《梁武帝紀》

 5月、甲辰(26日)、東魏が大赦を行なった《魏孝静紀》

●王盟の死
 この月、西魏の太傅の王盟泰の母の兄。543年7月参照)が逝去した《北史西魏文帝紀》
 盟は立ち居振る舞いが上品で、誰にも優しく接した。師傅の位に就いて、百官の中で一番の礼遇を受けたが、常に恭しい態度をとり、権勢を笠に着て威張ることが一度も無かった。文帝時に39歳)は盟を非常に尊重し、盟が病に伏せると何度も見舞いに訪れ、自ら何か要望は無いか尋ねた。盟が帝から礼遇を受けること、みなこのふうであった。孝定公と諡された《周20王盟伝》
 
●大誥
 晋朝より以降、人々は文章を作るさい華麗さだけを追い求めたが、その風潮がやがて社会全体まで浮薄に至らせるようになっていた。泰はこれを改めようと考えていた。
 6月、丁巳(10日)、文帝が太廟にて祖先の祭祀を行なった。泰は群臣が勢揃いしたこの時を狙って、大行台度支尚書・領著作・司農卿の蘇綽字は令綽。泰の腹心。戸籍・計帳の創始者。二十四条及び十二条の新制を五巻にまとめた。544年参照に作らせておいた大誥(訓示)を読み上げ、群臣に訓戒を行なった。
 以後、文章はみなこの大誥の文体に倣うようになった《周23蘇綽伝》

●陳覇先、李賁の討伐に赴く


 去年の冬、広州刺史の新渝侯暎544年参照)が亡くなった。
 この年、西江督護の陳覇先字は興国、時に45歳。544年参照)がその棺を運びに建康に向かった。しかし、大庾嶺(広州の東北)に到った所で朝廷から交州司馬・領武平(交州の西北)太守に任じられ、刺史の楊瞟と共に、交州の叛賊で南越帝の李賁544年参照)を討つように命じられた。
 覇先は同郷でとても親しかった沈恪字は子恭、時に37歳)に、妻子を故郷(呉興郡)まで送り届けさせた(陳12沈恪伝)。
 覇先は広州に還ると勇敢な兵士を集め、精良な軍需品を取り揃えた。瞟はこれに喜んでこう言った。
「賊に勝つことができる者は、きっと陳司武(司馬の別称)だ。」
 かくて今回の討伐計画の一切を覇先に委ねた。覇先は兵を率い、番禺(広州の治所)を発った。
 定州(治 鬱林郡、広州の西)刺史の曲江侯勃はこれと西江(珠江)にて合流したが、兵士たちが遠征に尻込みしているのを知ると、彼らを密かに買収したのち、瞟に進軍をやめるように言った。瞟がそこで諸将を集めてこれを諮ると、覇先がこう言った。
「交趾(交州の治所)が叛いたのは宗室(武林侯諮)の過失によるものであって(541年参照)、その結果、数州に渡って何年も跳梁を許すことになってしまいました。定州(蕭勃)は目先の安寧にばかり囚われて、大局というものが見えておりません。〔使君は彼の言に従って、また宗室に罪を重ねさせるつもりなのですか。〕そもそも討伐を命じられたのなら、死を賭してこれに当たるのが決まりです。どうして宗室を怖がって国法を軽んずることができましょう。それに、今進軍を停止すれば兵の士気は阻喪し、賊を討つことなどできなくなります。討伐軍が引き返すようなことになれば、責任の追及は免れませんぞ!」(原文『「交阯叛換、罪由宗室、遂使僭乱数州、弥歷年稔。定州復欲昧利目前、不顧大計。節下奉辞伐罪、故当生死以之、豈可畏憚宗室、軽於国憲? 今若奪人沮眾、何必交州討賊、問罪之師、即回有所指矣。」』
〔そこで瞟は続行を決意した。〕
 この月、覇先は兵に軍鼓を打ち鳴らさせながら交州に入った【考異曰く、『三国典略』には「十二月癸丑至交州」とあるが、今は陳書帝紀の記述に従う】。瞟が覇先を先鋒とすると、賁は三万の兵でこれを迎え撃ったが、朱鳶(シュエン、交趾の西南)にて敗れ、更に蘇歴江口でも敗れ、嘉寧城(新昌郡、交趾の西)に逃げ込んだ(大越史記外紀4)。諸軍はこれを包囲した《陳武帝紀》
 曲江侯勃は、呉平侯景武帝の従父弟)の子である《南51蕭勃伝》

 沈恪は呉興郡武康県の人である。沈着冷静で、物事を上手く処理する才能があった。新渝侯瑛が郡将となると、召されて主簿となった。瑛は任地を北徐州、次いで広州に遷したが、恪はその度に付き従い、兼府中兵参軍とされ、常に兵を率いて俚洞(黎族の住む山地)を討伐した。盧子略の叛乱(544年5月参照)の際には広州城の防衛に貢献し、その功により中兵参軍とされた《陳12沈恪伝》

 秋、7月、庚子(23日)、散騎常侍の徐君房・通直常侍の庾信ら梁の使節が鄴に到着した《魏孝静紀・魏98島夷蕭衍伝》

┃高歓、柔然の娘を娶る


 当時、柔然(540年参照)は強勢で、西魏と友好関係にあった。歓はこの両者が協力して侵攻してくるのを憂慮し、行台郎の杜弼歓に西魏よりも先に勲貴を除くよう勧め、武器の列の間を歩かされた。537年〈2〉参照)を柔然に遣わして、可汗の娘と世子の高澄の婚姻を求めた。すると頭兵可汗郁久閭阿那瓌、538年〈1〉参照)はこう言った。
「高王()自らが娶るのならいいだろう。」
 歓が躊躇して決めかねていると、妻の婁昭君が言った。
「国家の存亡に関わる事です。躊躇ってはなりません。」
 澄や尉景四貴の一人。歓の姉の夫。幼くして母を喪った高歓を引き取って育てた。542年参照)も婚姻を勧めたので、歓は鎮南将軍の慕容儼西魏から東荊州を守り切った。537年〈4〉参照)に可汗の娘の蠕蠕公主[1]を迎えに行かせた。頭兵可汗は弟の禿突佳に公主の付き添いと報答の使者を任せるにあたって、こう言いつけた。
「孫ができるまで帰ってくるな。」
 8月、公主が東魏の領内に到ると、歓はこれを下館[2]まで行って自ら出迎えた。歓の側室の一人の爾朱氏爾朱栄の娘。もと孝荘帝の皇后)は二人を木井[3]の北にて出迎えたが、蠕蠕公主とは行列の前後に別れて進み、顔を合わせることが無かった。その道中、公主が角弓(両端を角でつくった弓)を引いて空飛ぶ鳶(とんび)を一矢で射落とすと、爾朱氏も長弓を引き、空飛ぶカラスを一矢で射落とした。歓はこれを見て喜んで言った。
「我が二婦人は、充分賊と戦える。」
 公主が晋陽にやってくると、婁昭君は正室の座を彼女に譲った。歓が跪いてこれに感謝すると、昭君はこう言った。
「彼女が勘付きますから、これからは一切私に気をかけないでください。」[4]
 公主は毅然とした性格で、生涯華言(中国語)を話さなかった。歓があるとき病を患い、彼女の寝室に行くのをやめようとした。しかし禿突佳にひどく睨まれると、やむなく病身を押して、射堂(弓を射る練習をする場所)より輿に乗って行った。公主が手厚い保護を受けること、みなこのふうであった。

○北斉9神武明皇后伝
 神武逼於茹茹,欲娶其女而未決。后曰:「國家大計,願不疑也。」及茹茹公主至,后避正室處之。神武愧而拜謝焉,曰:「彼將有覺,願絕勿顧。」
○北斉20慕容儼伝
 武定三年,…頻使茹茹。
○北14蠕蠕公主伝
 蠕蠕公主者,蠕蠕主郁久閭阿那瓌女也。蠕蠕強盛,與西魏通和,欲連兵東伐。神武病之,令杜弼使蠕蠕,為世子求婚。阿那瓌曰:「高王自娶則可。」神武猶豫,尉景與武明皇后及文襄並勸請,乃從之。武定三年,使慕容儼往娉之,號曰 蠕蠕公主。八月,神武迎於下館,阿那瓌使其弟禿突佳來送女,且報聘,仍戒曰:「待見外孫,然後返國。」公主性嚴毅,一生不肯華言。神武嘗有病,不得往公主所,禿突佳怨恚,神武自射堂輿疾就公主。其見將護如此。
○魏故斉献武高王閭夫人墓志
 夫人姓閭,茹茹主第二女也。…夫人体識和明,姿制柔婉,閑淑之誉,有聞中国。…齐献武王敷至德于戎,…遂以婚姻之故,来就我居,推信让以和同列,率柔谦以事君子。虽风马未及,礼俗多殊,而水清易变,丝洁宜染, 习以生常,无俟终日。至于环佩进止,具体庶姬,刀尺罗纨,同夫三世,非法不动,率礼无违。
○北14彭城太妃伝
 神武迎蠕蠕公主還,尒朱氏迎於木井北,與蠕蠕公主前後別行,不相見。公主引角弓仰射翔鴟,應弦而落;妃引長弓斜射飛烏,亦一發而中。神武喜曰:「我此二婦,並堪擊賊。」

 [1]北魏の世祖太武帝の時に柔然を蠕蠕と呼ぶことが定められた。無知なさまが這い歩く(蠕動)虫を連想させたからである。阿那瓌がむかし蠕蠕王とされて国号を定められたのは侮蔑の意思があったが、高歓がその娘を娶って蠕蠕公主と呼称したのは、国号経由でそう呼んだだけであって、侮蔑の意志があったわけではなかった。
 [2]陰館城(肆州の北)に上館・下館があった。
 [3]宋白曰く、木井城は今(北宋)の并州陽曲県(晋陽の北)理(治所)にある。
 [4]婁昭君は己よりも国家の事を優先した。春秋晋の趙姫(晋の文公の娘で、趙衰の妻)が叔隗(狄にいた時の趙衰の妻)の子(趙盾)を嫡子とし、己を下に置いた(左伝僖公二十四年)のと同じ心がけであった。

●安吐根
 柔然は東魏と和親し、婚姻を結ぶ際、常に安吐根なる者を使者として派遣した。
 吐根は安息(パルティア)人で、曽祖父の代に入国し、酒泉に居住するようになった家の出である。北魏末に柔然に派遣された際、抑留された。天平の初め(534)に正使として晋陽に赴くと、密かに柔然が東魏への侵攻を企んでいることを高歓に伝えた。このため、東魏は警戒態勢をとることができ、のち、果たして柔然が侵攻してきても被害を出す事が無かった。歓は吐根の誠忠ぶりを褒め、手厚い賞賜を加えた。
 吐根は物腰が柔らかく、応対が非常に上手だったので、何度も東魏に使者に赴いては歓から手厚くもてなされた。
 のち讒言に遭って身の危険を感じ、東魏に亡命した。

 冬、10月、己未(14日)、梁が詔を下し、金銭で罪をあがなうことを許した【天監三年50411月に禁止されていた《梁武帝紀》

 丁卯(22日)、歓が上奏して、奚・柔然に接する幽・安・定三州北部の要所に城や砦を築き、防備を強化することを求めた。歓が自ら該当の地域の視察に赴いたため、防備の手薄な拠点は一つ残らず無くなった《北斉神武紀》
 この月、中書舍人の尉瑾字は安仁。北魏の肆州刺史の尉慶賓〈526年(2)参照〉の子)を梁に派遣した《魏孝静紀》

 この月、泰が白水(覇府のある華州の西北)にて大閲兵式を挙行し(去年と同じ場所)、そのまま西の岐陽に赴いて狩猟を行なった《周文帝紀》

 閏10月乙未(20日、歓が上奏し、邙山(543年の戦い)で得た西魏の捕虜を解放して、民間の寡婦と婚姻させることを求めた《魏孝静紀》

○北92安吐根伝
 安吐根,安息胡人,曾祖入魏,家於酒泉。吐根魏末充使蠕蠕,因留塞北。天平初,蠕蠕主使至晉陽,吐根密啟本蕃情狀,神武得為之備。蠕蠕果遣兵入掠,無獲而反。神武以其忠欵,厚加賞賚。其後與蠕蠕和親,結成婚媾,皆吐根為行人也。吐根性和善,頗有計策,頻使入朝,為神武親待。在其本蕃,為人所譖,奔投神武。
 
 
 545年(2)に続く