イエスとユダヤ教の検証



①パリサイ派が、イエスを謀殺した  

「中世キリスト教ヨーロッパは暗黒の時代」という常識が、いまの日本では広く知られている。
 しかしこれは全く事実に反することである。
  「中世ヨーロッパは、ユダヤ教徒にとっては暗黒時代」ということは事実である。

何故なら、そこでは、人々は「ユダヤはイエス・キリスト=神を殺害した民族である」と、端的に指さして言ったからだ。


 しかしながら、恐ろしく不可解なことに、キリスト教徒の経典の中には、ユダヤ教と共通の旧約聖書が含まれている。このために、キリスト教徒のユダヤ観は混乱し、自己矛盾せざるを得ない。彼らの排ユダヤは首尾一貫し得ない。キリスト教徒はユダヤ教との腐れ縁を切ることが出来ないのだ。恐らく、この難問に、2000年の間、凡てのキリスト教徒が苦しんで来たに違いないと思うのである。
  16世紀になってようやく、ヨーロッパのキリスト教神学者たちによるヘブライ語研究が本格化してから、それから、400年以上の真剣なる研究がつみ重ねられていくことで、ごく僅かな先覚者たちが隠された秘密をさぐり当てることに成功する。



その結果、「イエスを殺害した真の犯人は、バビロン捕囚期に秘密結社として成立したパリサイ派のラビ集団である」ということが、ついに突きとめられたのである。



〘名〙 (rabbî 「我が師」の意) ユダヤ人が宗教的指導者に対して用いる敬称。 転じて、ユダヤ教の聖職者。




 イエスが伝道を始めたその当初から、パリサイ派はイエスに対する殺意を抱くことになる。彼らは、3年の間も準備して、ついにイエスの捕縛に成功し、パリサイ派が首脳部となっていたサンヘドリン(最高評議会)に引き出されることになる。


 祭司長等及び長老等(これ等の最高職位を自派から出していたパリサイ派)によって煽動されたユダヤ民衆は、当時のローマ政府の長官ピラトに向かって、凶悪なる強盗のバラバを赦免して、その代わりにイエスを十字架(正確にはT字架)にかけることを請願した(その当時は、過越の祭に、十字架にかける罪人の一人を必ず赦免する規則になっている)、と福音書には記されている。
 当初ピラトが、イエスを死刑にすることに全く気乗りしていなかったことは、新約聖書の言々句々にあまりにも明らかである。だが、彼は、パリサイ派に煽動されたユダヤ民衆が執拗にイエスの殺害を要求するので、ついにその執着なる悪意に根負けして、イエスを十字架につける命令書に署名せざるを得なくなる。

②なぜ、パリサイ派はイエスを謀殺しなければならなかったか  


 イエスの伝道は、パリサイ派を芯から震撼せしめたというのが事実である。イエスの声がパリサイ派の偽善を暴いた時、彼等の支配は破局に瀕することになるからである。
 イエスの最初の奇蹟が、ユダヤの民衆の待望したメシア(救世主)の出現であると感ぜしめた時に、如何に大きな驚異であるイエスの教えが、パリサイ派の人々を衝撃したかは、新約聖書によく描写されている。
 イエスはすでにその以前にも、安息日の祝典について、外面的敬拝を過大に遵守することを装って心中ひそかに律法の破壊を謀っていたパリサイ派の「偽善」に正面から立ち向かって責めたてている。
 イエスの往く所に従い、その行なった奇蹟を見て鼓舞されつつあった民衆達の勢いを見ると、これは、「聖殿で売買を行なう者」の権勢の終焉を予報していたかのように見えた。
 その頃、パリサイ派は、イエスのもとに使者を派遣した。この使者の一団は、ガリラヤの岸辺でイエスに会っている。
 彼らは、パリサイ派の設立した洗浄式の一つを口実として、イエスの弟子がこの儀式を守らないことを責め、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」とイエスに言った。
 

イエスは「なぜ、あなたがたも自分たちの言い伝えによって、神のいましめを破っているのか」と言い、また、「偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味にわたしを拝んでいる』」と言った、と聖書には記されている。


 ここで言われていることの真の意味は、イエスが、パリサイ派の自称する「古人の言い伝え」とは、パリサイ派によるでっち上げであり、モーゼの律法とはまったく別物である、つまりそれはニセモノである、「汝等(パリサイ派)は、ユダヤ教の神の誠令をふみにじり、破壊するものである」と、パリサイ派の使者たちに述べた。ということである。
 これによって見れば、イエスは、パリサイ派の偽善の正体を、その奥底まで見破っていたということが理解できる。
 「あなたがたはわざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである」(マタイ伝第23章)という一句は、福音書の中でももっとも有名で、よく引用されるところだ。
 これによってパリサイ派は、完全に死命を制せられた。彼等のイエスに対する憎悪は頂点に達したのである。イエスを殺害しない限り、500年に亘って築き上げて来たパリサイ派の全秘密結社は崩壊することになるからだ。イエスを殺す他ないと彼らは考えた。

③なぜ、パリサイ派はローマ軍にイエスを殺害させたか  

 福音書は、イエス殺害の経緯を詳しく記録しており、その本筋は疑う余地なく明瞭である。
 つまり、パリサイ派は、イエスを、ユダヤの裁判によってでなくローマの刑によって殺害させた、ということである。
 ユダヤの死刑は、石撃ちの刑である。

その刑というのは、下半身を生き埋めにして、動きが取れない状態の罪人に対し、大勢の者が石を投げつけて死に至らしめる処刑法である。イエスの死後に、パリサイ派は執事の一人である・ステパノを殺害したが、彼は石撃ちの刑で殺された(使徒行法)と記してある。



それでは、なぜパリサイ派はイエスを、直接、石撃ちの刑をもって殺さなかったのだろうかという疑問がでる。
 その答えは、福音書によると、パリサイ派はイエスを「ローマに対する政治的反逆を煽勤しているが故に、ローマの法によって死刑とさるべきである」とピラトに対して請求した、となっていることに注目する。
 イエスが、ユダヤ民族によるローマに対する政治的(従って次には軍事的)な反乱を組織した、というのは事実といえるだろうか…
 いや、福音書に見る限り、そんな形跡はひとかけらもない。彼のホコ先は、ユダヤ民族と、ユダヤ教の内部に向けられている。イエスは、ユダヤの民衆に向って、彼等の祖先に与えられた神の古代よりの約束を想起せしめ、離叛した彼らの祖先の信仰の記念を喚起せしめようと努めているのが本当のところである。
 イエスは、パリサイ派こそ預言者を殺害した者の子である、「へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか」と弾劾している。
 つより、イエスの伝道の核心は、ユダヤの民衆に対する大きな過ちであるパリサイ派秘密結社の支配を打ち砕くことであったのである。


 パリサイ派は、イエスのこの正々堂々の言論に対して、まともに立ちむかうことが出来なかったのである。それに苦しむ彼らはイエスの主張を作りかえる戦術に出た。つまり、「イエスこそ、メシアである」というユダヤ民衆の信仰を逆手にとり、このメシアを、パリサイ派的なメシア、すなわち「政治的軍事的なユダヤの独立と、ユダヤ人に多大な物質的富を約束する指導者」という形にすりかえ、そして次に「ユダヤの民衆を失望させ、最後に、イエスをローマ軍に告発し、売り渡す」という作戦である。
 

そして、最終的に、(パリサイ派に言わせれば「ニセのメシア」であるところの)イエスを殺害した責任をローマ軍に転嫁してしまうことである。
 この謀略は、大変入り組んでいるので、表面だけ見るものには理解出来ない仕組みなっている。
  パリサイ派の手口は常にこんな具合なのである。そしてこの謀略が、その後、キリスト教徒を混乱させる上で大きな力を発揮してゆくことになるのだった。

④イエスは、パリサイ派の全教義と、全権威を土台からくつがえそうとした  


「イエスは、僅か3年の短い時間しか伝道の期間がなかった」と伝えられているが。しかし、この3年の間に、イエスは、パリサイ派が500年をかけて築き上げた全殿堂を土台からくつがえす寸前のところまで到達していた。


 イエスがそれをなし得たのは、実は、パリサイ派出現の当初から、バプテスマのヨハネに至る500年の長き歴史があり、パリサイ派に反対し、抵抗し、それを批判するユダヤの宗教的精神的伝統のすべてを、彼が継承していたからなのだ。
 つまり、彼は、パリサイ派の隠された正体のすべてを見抜いてしまっていたのということである。 パリサイ派の全堂宇、全建築物は、その偽善、その陰謀、その欺瞞に依存している。
 それが白日のもとにさらけ出されるとき、彼らの幻想の大宮殿、彼らの虚構の大神殿は一瞬のうちに崩壊し、消滅する運命下にあった。

 恐らく、パリサイ派の人々も、そのことをよく理解し、その脅威を深く認識していたに違いないのである。

 「神の永きにわたる忍耐が、イスラエルの民の罪悪のためにその力を失って、神がその仁恵をこの民から取り上げ、その特権を奪って、これを他国民の間に分配する時期が到達した」との警告を、イエスは、あの有名な、ぶどう園の主人云々のたとえ話で意味深に述べている。



トマスの福音書ではこの部分。

65 彼は言われた。”ある善人が葡萄酒を持っており、それを栽培者たちに貸した。それは彼らがそこで働き、彼が彼らから果実を受けるためである。彼は彼の僕を遣した。栽培者たちが彼に葡萄園の果実を渡たすためである。彼らは彼の僕を捕え、彼を打ち、彼を殺さんばかりにした。その僕は来て、主人に告げた。彼は主人に言った。[たぶん、彼は彼らを知らなかったのだ]。彼は別の僕を遣した。栽培者たちはこの僕をも打った。すると主人は彼の息子を遣した。彼は言った。[たぶん、彼らはわたしの息子を重んじるであろう]。しかしこの栽培者たちは、彼が葡萄園の相続人であることを知ったので、彼を捕え、彼を殺した。聞く耳のある者は聞くがよい”。



 葡萄園とは、唯一神である方。その相続人、神の子であるイエスである。


 この話は、ユダヤ人による神人の殺害、次いで彼らに及ぶ神罰の預言である。
 福音書は、「祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬えを聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、イエスを捕らえようとした」と記している。
 通俗のキリスト教史についての解説書(ユダヤ、パリサイ派色で偽造された)には、キリスト教は、ユダヤ教の改革派、改革主義運動の一種である、などと、安易に書かれているが、これは全く当たっていないというのが事実だろう。



そんな(改革などという)なまやさしい関係ではないのだ。
 また、ユダヤ教が、復讐と憎しみ、怨恨の情念のこりかたまりであるのに対して、イエスは、「愛の宗教」を説いた、などと、よく言われるが、これも、問題の核心を完全にそらしている。
 

イエスは、パリサイ派の「偽善」、その偽隔をズバリ的確に、正面から突いたのということ。



「偽善」とは、明治初年につくられた英語からの訳語である。しかし、この新造日本語は、原語(ヘブライ語→ギリシャ語→ラテン語→英独仏語)の、恐ろしく強烈な、毒々しい、身の毛のよだつようなひびきを持つことばと、似ても似つかない、弱々しい感じしか与えない。あいにく、日本民族には、それに対応するような体験が存在しなかったのである。

⑤パリサイ派は、イエスの使徒たちの布教拡大に戦慄した  


 世界の救い主が、すべての罪人等の上に伸ばして広く左右に開いた両手を、パリサイ派の人々は、十字架の木に釘をもって打ちつけた。十字架に釘づけにされたキリストの足下に、その門下達や、門徒及び聖なる婦人たちが泣き叫んでいた時に、神の子の殺害者たる「ユダヤ人」は、高らかな笑声をあげて、イエスをあざ笑う。そして「その血の責任は、我々と我々の子孫の上にかかってもよい」という、イエス自身が忘れ得ぬことばをくり返していたのだ。


 パリサイ派は、巨敵キリストを謀殺したことによって、彼らが3年間悩んで来た脅威を駆除し得たと思った。それで最初彼らは、キリストの弟子等の伝道をすこしも意に介さなかったが、エルサレムに於て、キリスト教に帰依する者の数がますます増加したために、彼らは、ペテロとヨハネをサンヘドリン(最高評議会)の会議に引き連れて来ては、伝道を中止しろと威嚇したのである。
 しかし、使徒たちは伝道を中止しなかったので、再び拘引されて、鞭打ちの制裁を受けた。それでもなお、キリスト教に帰依する者を阻止することは出来なかった。
 これによって、パリサイ派の不安が増すに従って、その暴虐の程度もいよいよ苛酷をきわめ、執事ステパノは石を以て撃ち殺された。
 ステパノが、死を前にしてパリサイ派の裁判官に向かって述べた烈々たることばは、使徒行伝7章に記録されでいる。
 すなわち、「強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」と…。
 新約聖書の中核部分は、四福音書と使徒行伝であろう。
 そしてここには、パリサイ派の正体が、誤解しようのない鮮明さで描写されている。
 実際、ステパノのこのことばは、パリサイ派秘密結社のラビたちを戦慄させたのではなかろうか。
 執事の一人・ステパノはパリサイ派ユダヤによって殺害された。
 しかるに、キリストの使徒たちは、互いにその伝道の地区を分配して、町から町へ、会堂から会堂へと巡歴して、全ローマ帝国の各地に分れて活勤し、いたるところに新しい信徒の数を増加させた。パリサイ派のユダヤ人に対する宗派的主権が危殆に瀕しつつあることを、彼らは悟った。



その答えがここにある。

44 イエスは言われた。”父を冒涜した者は赦されるであろう。そして、子を冒涜した者は赦されるであろう。しかし聖霊を冒涜した者は、地上でも天でも赦されないであろう”。



ユダヤの後世の運命である。



結局、後世にそれを証明すべくひとりに人間が現れる。



68 イエスは言われた。”あなたがたが憎まれ、迫害されているとき、あなたがたは幸いである。そして、あなたがたが迫害されてきた所で、あなたがたが場所を見出さないときに”。



69 イエスは言われた。”心の中で迫害された人たちは、幸いである。彼らは、父を真実に知った人たちである。飢えている人たちは、幸いである。欲する者の腹は満たされるであろう”



結局、イエスは凡てを知りながら、それを理解して敢えて十字架の上を選んだことになる。そうでなければ、最後の晩餐のときの預言はない。



⑥ 十字架信仰になる偶像のわけ



 教会の中に十字架が持ち込まれたのは431年にローマ皇帝テオドシウスが開催した「エフェソ公会議」以降である。



マリアを神の母と呼ぶことが公認されたのもこのときからで、現在のキリスト教会の教義の多くが、この「エフェソ公会議」に基づいているというのは事実である。



ちなみに、パウロのローマ教会が権力を掌握したこの「エフェソ公会議」の採択によって、12使徒の教会のほとんどすべてが異端とされて追放され、ローマ教会の徹底的な迫害にあい、事実であるが壊滅させられた。その後、586年に教会の上に十字架が立てられたのである。



 そのパウロが「イエスから受け継いだもの」と明言したことで聖体拝領の伝統が出来上がったのであるが、実はパウロは生前のイエスに会ったこともなければ、話をしたこともなかった。



ましてやイエスの最後の晩餐に同席したこともなければ、それにあずかったこともない。それを「わたし自信、主から受けたものです。」と書くのは、嘘と言っていい。パウロの友であるルカが書いた『使徒言行録』にさえ、イエスの死後に弟子たちはイエスを裏切って死んだイスカリオテのユダの代わりに使徒を選出する際、ペテロの提唱により主の復活の証人となるべき者は「ヨハネの洗礼のときから始まってイエスが天に上げられた日までイエスと弟子たちといつも一緒にいた者の中から選出されるべきだ」とされ、その者の中から「くじ」でマティアが選出されたことが書かれているのが事実である。



「くじ」は、ユダヤ教で祭司などが選出される際に使われる神託の手段であった(律法では占いは固く禁止されているが、くじは占いではない)。



 生前のイエスと共に居なかったパウロに、使徒の資格はなかったのである。聖体拝領は、パウロが主イエスから受けたものではない。そして使徒の資格を持たないパウロは、自分自身で「使徒」を自称しはじめたのである。



その後に、真なるイエスの教えを伝える「原始キリスト教」は壊滅し、パウロのローマ教会が権力を掌握した「偽りの教義」が世に伝えられることになる。