注がない | かや

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〈将来を決めるのは、やり直しのきかない過去の積み重ねではなく、いかようにもなる「今」の積み重ねだ。
たとえ失敗という形で過去になったとしても、また「今」に集中して生きていけば良い。そうしてうまくいくと、結果、「あの過去があったから、今の自分がある」というふうに過去の価値が変わる。
逆に、過去がいくらうまくいっていても、今が駄目だと過去の価値まで半減する。「今」にひたすら集中して、過去に心を注がないことだ。〉
というような意味のことを庭園デザイナーで特雄山建功寺住職の枡野俊明氏は何かの著書の中で記していた。
過去に心を注がない、とは実に言い得て妙だなと思い印象に残っている。


どんなに抗っても過去は取り返しがつかない。
今この瞬間さえも一瞬で過去になる。
森羅万象、この世で起こることは一切が片時も留まってはいない。まさに仏教の根本思想のひとつ「諸行無常」、世の中全てのことが常ならずだ。
何かが有ろうと無かろうと一瞬すら止めことも出来ないし、決して遡らせることも出来ないことに私は深く安堵する。
自らの思いのままに時間を止めたり遡らせたり出来たとしたら、抱えている悲しみや苦しみから僅かにも逃れられるやも知れないし、取り戻したい去った時間を自らの思いのまま取り戻し、永遠に思いのまま続けられるのやも知れないが、自らが止めたり取り戻した時間がどのようにかけがえも無く素晴らしい時間だとしても、それが永遠に続くとしたら、それは最早悲劇に思えてしまう。

去った時間を取り戻せたとしても、更にもっと取り戻したい時間に其処で気付いてしまうだろう。

そもそも永遠に続いてしまうなど、それほどの徒労が他に有るだろうか。

徒労ほど気力も体力も奪うものは無い。

単語として「永遠」は存在しているが実際には「永遠」は誰も体験したことが無い「永遠」などという言葉を安易に連発してしまったが。



無駄な骨折り、無益な苦労を「徒労」と呼ぶが、過去に心を注ぎ、身を震わせて拳を強く握るような思いに駆られることほど徒労と呼ぶに相応しいものは無いだろう。過ぎた幾星霜に心を注ぎ過ぎれば明日は無い。枡野氏の〈将来を決めるのは、やり直しのきかない過去の積み重ねではなく、いかようにもなる「今」の積み重ねだ。〉という言葉の通りだなとつくづく思う。
既に動かしようの無い覆しようの無い過去に気持ちを囚われていれば、不本意であってもそれがそのままの明日になる。
心を注ぐということは不本意な状況を自らがわざわざ作り出していることに他ならない。という意味で過去に心を注がないという言葉は印象に残っているが、心を注ぐどころか、なんでもかんでもすぐに気持ちが離れてしまうのもどうなのかなと自身を一瞬懐疑するが、大して「どうなのかな」とも思っていないので、気持ちはふわふわ他に移ってしまっている。


friday  morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。ほどほど。