と。思っているのは本人だけやも知れない | かや

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書を眺めるのが好きだ。
四十数年ほど前、十代の頃、藤原定家の書に興味を持ったのが最初で、以来、古今内外の名筆と呼ばれる様々な書を眺めてきた。好きな書はたくさん有るし、そこに表現された書の美もさることながら意図を味わうのも楽しく、繰り返し眺めても毎回あらたな発見や感銘を覚え、奥行きの深さに吸い込まれ続けている。
そして、やはり王羲之の書に殊更惹かれる。

初めて見た四十数年前にはよく分からなかったし今も何かが分かっている訳では全く無いが、長い年月の中でじわじわとその不思議な魅力に惹き付けられ続けている。

羲之の「蘭亭序」はあまりにも有名だが、初めてその書を見た四十数年ほど前から今に至るまで飽かず眺めている。


永和九年三月三日会稽山陰(浙江省)の蘭亭に江南の貴族四十一人が集まり、禊の儀式を行い、流觴曲水(りゅうしょうごくすい)の宴を催し、そこで会した者の詩に王羲之自らが書いた序文が「蘭亭序」で、王羲之の神品といわれているものだ。全文二十八行、三百二十四字、変化の妙を尽くし、同じ字は全て変化している。
後日、数十本を浄書したが、当日に書いた作には及ばず、羲之自らがこれを傑作とし、草稿のまま家宝として伝えたと言われている。

古来、歴代の法書中、「蘭亭序」はこれに勝るもの無しという神品であり、行書の手本として最も評価されている作品と言われいる。
後に原本は唐の太宗皇帝の所有となったが太宗が愛惜するあまり、遺言してその陵墓に埋めさせたと言われている。
現在伝えられている「蘭亭序」は全て臨摸されたものと拓本だ。初唐の欧陽詢(おうようじゅん)・虞世南(ぐせいなん)・褚逐良(ちょすいりょう)などの名家による臨摸本と、双鉤填墨(そうこうてんぼく)などによる摸本とが有り、それぞれが少しづつ表現が違っている。

幾つかの摸書の中、「神龍半印本」と呼ばれ、唐代の馮承素(ふうしょうそ)の摸書と伝えられている「蘭亭序」を久しぶりに眺め、ひとときを過ごした。
常々思うがこのようなひとときが何よりも心地良い。


心地良いひとときは、他にはクラシック音楽に触れている時で、聴いたり弾いたり、それこそ譜面を眺めてメロディーを頭の中に浮かべるだけでも楽しい。
実際、素晴らしい曲の譜面は皆漏れ無く美しく、それこそ芸術的な美観を伴っている。
また、幾つかの住まいの庭や時折通り抜ける公園なども日々変幻し続けている様子にいつでも目を奪われるし、風の音や大地の息遣いや見上げた空の片時も目を離せないようなうつろいにも気持ちは囚われ続けているし、書棚から何気無く手に取った書物、それらは興味を持って購入し、既に繰り返し読んでいるものだがやはり飽きることは無いから、そのような書物で移動の間に間にを過ごして、なかなか他に目が向く隙間が無く、世の中全般の誰もが知るようなことにかなり疎い。
しかし、それでコミュニケーションに困ったことは無い。と。思っているのは本人だけやも知れない。


thursday  morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦なまま。