どのみちそれは | かや

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養老孟司氏が医学生の頃、精神科で初めて診た患者が神の声が聞こえるという大会社の地方の工場長をしている男性だった。
患者の話を聞けば、もともとテンカンの小発作の度に幻聴が有った。若い頃は自分には小発作が有り、その度に幻聴が有ると家族などに言っていた。しかし、五十代の半ばを過ぎてから、幻聴が神の声になったと言う。
それを家族が心配して、病院に連れ来た次第だ。
学生だった養老氏は話を聞くだけだったが、養老氏の診断の結論は明瞭だったと言う。
本人はたいへん長い歳月に渡り幻聴を聞いていた。
それを幻聴だと判断するのはその人の意識だが、その意識がついに疲れてしまいバカらしくなったのだろう、面倒だから、神の声にしてしまえ、そう思ったのだろう、と養老氏は捉えた。


つまり、若い間は周囲の人たちに合わせる必要があるから、幻聴だと自分でも努力して思い込んでいたのであろう、その努力をやめてしまえば、神の声になる。
何故それで問題が無いのかと言えば、どのみち聞こえているのは〈自分の考え〉なのだ。ゆえに、それなら別段何の問題も無い。
若い頃ならば、世間の常識が身に付いていないから、神の声で行動されると、甚だ具合が悪いことが起こったかも知れない。しかし、ある程度以上にまで年齢が進んでしまえば、それほど変わったことは考えないであろう。考えたところでたかが知れている筈だ。それならば、神の声だろうが、幻聴だろうが、大した違いは無い。
養老氏は、この患者の場合は、無害だと判断したのだと言う。

このくだりを読んだ時、とても面白いなと思った。
つまり、幻聴だろうと神の声だろうと、どのみちそれは〈自分の考え〉だという部分が、全く以てその通りだなと思って面白かった。
発する言葉はその人の持つ語彙の組み合わせだ。
語彙は日常生活から得た謂わば情報だ。読んだ書物、交わした会話、そして体験など、目に入り耳に入ってくるそれらが脳裡にうっすら付着している。
幻聴だろうと或いは幻覚だろうと、はたまた神の声だろうと、それを言葉にして発する時は、明らかに脳裡に付着している語彙を組み合わせているに過ぎない。
その人の持つ語彙の域を決して出ない。実際には経験していない事柄などを推し量ったり、現実には存在しない事柄を頭に描く空想もまたその人の語彙の範疇でしか無い。


想像を超えた想像など有り得ないし、従ってその人の語彙を超えた言葉などは一語も出ては来ない。その人にとって全く未知の言葉が突然その人に降って沸くなどと言うことはまず無い。
皆無とは言わない、ごく稀に、何かが憑依して、行ったことの無い国の言葉を喋ったり、死んだ誰かとしか思えないその当人そのままを三つの子供が喋り出しただとか言う微妙に不思議な話は少なくない。
とは言うものの、恰かも神の声を聴いたと言うのは、安易過ぎるし、嘘だとしても詰めが甘く乱暴だ。
などと言えば世の中には言葉では説明出来ないフジギはゴマンと有ると反論されそうだが、幻聴だろうと神の声だろうと聞こえているのはどのみちそれは〈自分の考え〉なのだ、という養老氏の結論に尽きてしまう。
その人自身の語彙の域を決して超えていないのだから、なんだか笑える。

 
saturday morning白湯が心地良く巡り渡る。

本日も。力半分どころか三分どころか一分ほど。