十分過ぎるくらい十分な辞典 | かや

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かやです。



嗚呼、違和感を覚えるなあ、と「ら抜き言葉」を見聞きする度にいちいち思っていたし、「ら抜き言葉」で何やら丁寧な生活だのナンだのを宣う記述に遭遇すると、その雑な「ら抜き」を改めるのが最初では無いかと冷ややかに思ったりもしていたが、あまりにもら抜き言葉が横行、否、市民権を得ているので、もう気に留めている場合でも無いし、今更、咎める人も居なくなったし、見慣れ過ぎたのか聞き慣れ過ぎたのか、どうでも良くなってきた。
そもそも言葉は変遷し続けているのだから、固執したところで、どうにかなる訳では無い。

最近、矢鱈を目にし、耳にする、非常に違和感を覚える言い回しに「刺さる」がある。
刺さる、などと見聞きすると、どうしても先端の尖ったもので何かを突くようなイメージが先行する。
もっと言ってしまえば、鋭利な刃物でズバッと何かを突く様子が浮かび、何やら不穏な気持ちになるのだが、どうやら、感動したとか感銘を受けるだとか共感出来るという意味合いで使われていて、心に受ける良い感受全般をそのように言い表しているようで、あまりにも頻々と見掛けるが、遡れば、二〇一五年、三省堂の辞書編集者が毎年発表している今年の新語ランキングで九位になったのがこの「刺さる」で、肯定的な意味で、瞬く間に、感動出来る、共感出来るなどと同義語としての意味だと捉える回答が過半数を占めているようなのだ。


本来、トゲが刺さる、と言うような使い方で、先の尖ったものが他のものに突き立つ意味で、比喩的に刺されたような強い衝撃を受ける意味にも使われ、どちらかと言えば、心に傷がつくような意味での強い衝撃として、刺さるは用いられていたのが、いつの間にか、深い感銘を覚えるような意味合いで使われるようになっている。
それを最近知って、何と無く嘆息した。

共感やら感動と言う感受ならば、気持ちに響くと言うような言い方で私は表しているが、勿論、全くの私感だが、刺さると言う語感がどうしても、感銘を受けていると言う繊細なニュアンスにそぐわない気がしてならない。



感動や強い共感などに用いる語として過半数を占めていることに違和感を覚えていること自体、逆行しているのだろうが、何しろ、小学生時代に使っていた小学館の金田一京助・佐伯梅友・大石初太郎編『新選国語辞典』昭和四十四年卓上新版四版発行を今だに捨てられずにいるのだから、最早、語彙が令和などでは無く昭和のまま停滞しているのだろう。

因みにこの辞典で「刺さる」を引けば、〈つきたつ。「とげが―」〉と出る。

おそらく、この辞典の示す域を出ること無く言葉を用い続けるのだろうなと思っている。と言うのも、この辞典で扱われている全ての言葉を全て使い切ってはいないのだから、私には十分過ぎるくらい十分な辞典だ。



sunday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。淡く薄い。