たとえ冒頭の詩句を遺していたとしても | かや

かや

かやです。



リッチでないのに
リッチな世界などわかりません
ハッピーでないのに
ハッピーな世界などえがけません
「夢」がないのに
「夢」をうることなどは…とても
嘘をついてもばれるものです

机の上の原稿用紙にしたためた遺書ともとれる詩句を遺したのは、当時、超が付くほど売れっ子だったCM演出家の杉山登志氏だ。
昭和四十八年十二月十二日だから今から五十一年前、CMがまだフィルムで撮影されていたたため、コマーシャル・フィルムと呼ばれていた時代だ。
今の人には馴染みが皆無だろうが当時広告業界に携わる者ならその名を知らない者は居なかったし、一時期資生堂の多くの一連のCM作品のグレードを支えていたと言われ、年間八十本もの様々なCMを制作していた杉山氏の作品を列挙するのは不可能に近い。
賞歴、作品名、クライアントを挙げた一覧があるが、一九六一年(二十五歳)森永製菓・森永製菓ガム第一回ACC第一種第一部門銀賞から始まり、その年は他に二つ別なクライアントのCMで受賞している。それから他界する前年までに百二十一、そして昭和四十八年(三十七歳)は五つの賞を受賞しているのでざっと百三十近い受賞の数は尋常では無い。


赤坂七丁目菩提寺に至近の当時高級マンションといわれた一室で登志氏は縊死した。
今もそのマンションはヴィンテージマンションと呼ばれ、部屋は軽く億超えで売買されている。
何日か前、毎月の菩提寺墓参りに行った帰り、そのマンションの前を車で通過して、杉山氏を思い出した。
父と杉山氏は交友関係にあったので、まだ私が幼稚園児だった頃、よく杉山氏は父を訪ねて来ていて、小さな私は優しい杉山氏の膝の上に座ったりしたらしい。また頻繁に海外ロケに出ていた杉山氏はよく土産も私に買ってきてくれたようだ。らしい、とか、ようだ、と言うのは、おぼろげに微かな記憶はあるが、のちに父が杉山氏の話をして、嗚呼そうだったかなと薄い記憶に輪郭が描かれて行くような具合だった。小学生になってからの記憶も幾つもあるがその頃はさすがに膝に乗るとかは無かったことは覚えている。
昨日、カヤバ倶楽部美術館と勝手名付けた単なる父の住居兼仕事場に行った。
父の仕事場にあるだろう探し物をしていた時、引き出しの雑多に重なった封書や書類などに紛れて何枚か古いモノクロの写真が出てきた。
ギャラリーで父が誰かと立ち話をしているものや小さなテーブルを囲んで何人かで写っているものなどで、父の隣でタバコを手にして父と話をしているのが杉山氏だった。そのどれもがカメラマンが撮影したもので、カメラを意識していない自然な一瞬が切り取られていた。写真は大切に取ってあるというよりは、たまたま仕舞ったまま放置した感じだった。


杉山氏はもともとは映画館で上映する映画に組み込まれた広告フィルムを主に制作していた日本天然色映画という広告制作プロダクションでCM作家としてその名前を馳せたが、それ以前、挿絵画家で既に杉山登志のペンネームを用いている。本名は登志雄だ。児童書で野上達雄著『人形げき・かげえしばい』や平塚和夫著『雲のはなし』でいづれもさしえ・杉山登志となっている。死の二年前に描いたと言われている「かお」の絵はひび割れた干潟にハニワのように目と鼻と口だけが逆さまに輪郭を囲った不思議な構図だ。
絵描きになるのだと言っていた杉山氏はいつしかCM作家となって以後絵コンテなどだけでなく、プライヴェートで描いた絵やデッサンなどを幾つか遺しているようだが、今は亡き父の仕事場での探し物を見付け、仕事場を出る時に、杉山氏が遊びに来た時、私をスケッチしたものだと父が見せてくれたことを思い出した。その時は何か他のことに気を取られていて「ふうん」と返事をしたものの、ちゃんと見ていなかったが、描き慣れた鉛筆画だった。
それを父の仕事場のドアを閉めた瞬間思い出した。
父がとうの昔に処分したかも知れないし、何かに紛れて残っているかも知れない。そのデッサンが今、有るのか無いのかも分からない。いつか、覚えていたら、探してみようと思った。いつか、などと思った時点でこのことはいつものようにすぐに忘れそうだなと苦笑した。
さて、杉山氏は何故自死を遂げたのか、諸説ある。その悉くが尤もらしく死に帰結するが、それが如何なる誰かであっても、本人以外に、何故を説明など出来ない。たとえ冒頭の詩句を遺していたとしても。


friday morning 白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。特に何も無く。