値しない | かや

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一日不作一日不食(いちじつなさざれば、いちじつくらわず)、その言葉の通り一日働かなければ一日食べないという意味だが、中国における禅寺の生活規範『百丈清規(ひゃくじょうしんぎ)』を定めた百丈懐海(えかい)の言葉だ。
中国仏教における達磨を初祖とする新しい主張(禅)が次第に顕在化する過程において形成されてきた修道形態を、百丈が自らの創意をもって集大成し成文化した最も権威とされ指標と仰がれる清規だが早く散逸しその全貌を知ることが出来ない。

百丈和尚は自身が定めた規範に従って、老齢になっても鋤や鎌を手に寺で作務と呼ばれる肉体労働をやめることがなかった。
しかし弟子たちは立派な師匠にこんなつまらない仕事はふさわしくない、年齢で体も弱ってもいるし、畑仕事はやめて貰いたいという思いから、百丈に作務をやめるように勧めるが、彼は黙々と日々働きに出る。
心配した弟子たちはある日作業の道具を隠してしまう。それで百丈はその日の作務を休んだが、食事をしなかった。
「何故食事をなさらないのですか」と弟子が問うと、百丈は「一日働かなければ、一日食べない」そのように答えた。


ブッダが最初に作った原始仏教においては律によって「僧侶は布施によってのみ生きよ」とされ、労働は一切してはならない、全ての時間を仏教の習得に費やせということだったが、中国に渡った仏教は寺を山の上や人里離れたところに造ったので托鉢に行けない。
多くの修行僧を抱えているので、畑を作って自活するようになる。従って、この教えは大乗仏教にのみ言えることでもある。

またよく比較されるのが聖書に説かれる「働かざる者食うべからず」だろう。
この言葉は「お前は働いていないから食べてはいけない」と神が説かれたものだ。
しかし百丈禅師の「一日不作一日不食」は、私は働かなかったので食べません、という自分の心から出てくるもので、あくまで自律的、自発的なものだ。
規則を守らなくてはならないからそれに従うというものでは無く、心から出てくる守らずにはいられないという、内から溢れ出る願いに支えられたものなので、似たような言葉ではあるが異なる。
自分自身の強い覚悟が禅の特色と言えようと説明されること多いが、肉体労働をしないと空腹を覚えず、食べ物が美味しく食せないから百丈禅師は食事がいらなかっただけでは無いかと即物的に考えてみると、いたずらに頭を使うばかりで体を動かさないでいると思考は鈍り混濁するばかりか、味覚も鈍くなる。
単純な動作を反復する畑仕事に夢中になることに率先して取り組むことで脳もスッキリし食事時の味覚も鮮明になる。というような捉え方も出来、この言葉からは様々な解釈があり得ると言われている。


普段、食事は特に気にしていない。
いつの頃から、朝だから昼だから夜だからというあり方も習慣性も全く無くなってしまっている。
食べるという意思をわざわざ置き去りにしている訳では無いし、また節制をすることも度を超えた不摂生に陥ることも無い。
否、外食のみの生活はそれ自体が不摂生と言われればそれまでだが。
たまたま何かを食するタイミングにたまたまその場にあるメニューを頂いているという具合で、強い意思のもと、何かを食べる為にわざわざ赴くということも無い。
幸いとでも言おうか、周囲の友人が食に興味を持ち合わせているが故に、美味しいとされている店に赴くことは多々あるが、普段は行動半径の中の幾つもの店にばかり立ち寄っている。
故に、それこそ、体に良い悪いを全く考えていない。
わざわざ悪いものを選びはしないが、良いものを敢えて厳選するということも無い。
食事に関して一切気を付けていることや気を遣うことは無い。
強いて言えば、心地良く食べることが出来ればそれで十分で、そして、有り、難く、丁寧な気持ちで口に運び、いつでも心地良く食べているので、食事はそれ以上の何かを求めるもので無く、そのようなものかなという弛い感覚しか無い。
昨日、ヘアサロンの後、友人と合流した店で食事を摂りつつ、ふと脈絡無く一日不作一日不食を思い出した。
その言葉を意識する以前、食を摂ることにどうしようもなく考え無しの私はその言葉を考えるにも値しないなと思い不謹慎なので笑みが零れた。


monday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡い。