いつだったかの | かや

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「私は全世界を隅々まで探し回った。『自分よりも愛しいものが見付かるだろうか』と。そして、自分より愛しいものは、ついに見いだせなかった」
成道から般涅槃までの間、ブッダが折に触れて発表した詩を自説経(ウダーナ)と言う。パーリ経典の中に散文の解説と共に収録され、法句経(ダンマパダ)と並んで名前はよく知られている仏典だ。
その『自説経(ウダーナ)』の第五章に冒頭の言葉がある。
そしてその言葉は「他のあらゆる人々にとっての『自分』も、同じように彼らにとって最も愛しい。誰もが自己愛者なのだから、自分の幸せを求めるのならば、他者の自己愛(ナルシシズム)を傷つけてはならない」と続く。

これらのブッダの言葉の中には人間の自己中心性に対して冷徹な洞察が含まれていると言われている。
誰かを崇拝しようと、誰かを熱愛しようとも、掘り下げて分析すれば、崇拝する誰かに自分を投影することを通じて、価値が高まったように感じられる「自分」が好きなのだ。
そのように夢中になれる自分、相手から愛を貰える自分、が、好きなのだ。
様々なボランティア活動、慈善事業、自然環境を守る運動などで、「人のため」と思い込みがちなことも、根底にある思惑を手繰れば、それにより包み込んで隠れていた自分の精神的価値を上げたいという意図が見えてくる。
究極的には「自分のため」だ。

一般的に価値のあるとされ、立派な行ないとされていることをすることで、「自分には存在価値がある」と自己暗示をかける自己愛がある。
人間の持つこのような意識の奥の奥では自己中心的でしかあり得ない自己愛が鎮座している。
仏教は人が皆、自己愛者つまりナルシシストであるという索莫とした真実を大前提に漸く一歩を踏み出していくことになる訳だ。


仏教で「渇愛」と呼ばれている自己中心的な思惑により、人は身の回り、ひいては世界を歪めて認識している。
雨が降る、晴れる、地震が起こる、嵐が起きる等々それらは自然現象で本来その現象に良いも悪いも無いが、水不足を心配していた人ならば降雨を「良い」と歪めるし、アウトドアでのレジャーを予定していれば「悪い」と歪める。
人の持つ思惑や都合に合う合わないによって、偏り自己中心的に良い悪いのレッテルをつけている。
更には、外出前、雨の予報を見て、雨なのは嫌だなあと思いながら、傘を持って出かける。ところが予報に反して雨が降らなければ、何故か肩透かしをくらった気持ちになり、傘を持って出かけた自分の選択が〈正しくなかった〉と感じるのが嫌な、「正しさの煩悩」ゆえで、雨が嫌だった筈が、対策を打った時点で心は密かに雨を望み始めている。
或いは○月✕日に天変地異が起こる、などと言う荒唐無稽とも言えるが不穏な予言が流布したとして、それが予言に反して起こらなければ、安堵する反面、密かに予言通りをそれが起きることを渇望していたりする。勿論、自分とはかけはなれた何処かでが前提だが、もともとは「悪い」と歪めていた筈のことを密かに「良い」に歪め直してまうまでに、脳はどこまでも自分さえ正しければ良いという勝手さを持ち合わせている。
と、言うようなことをずいぶん前、北鎌倉のある寺のご住職が話していた。
あらゆる全ての善悪は脳がその人その人の良いように決めているというある種の違和感をずっと抱いていたので妙に納得した記憶がある。


昨日友人女性が予約していた長谷の築百年ほどの古民家を改造したイタリアンレストランで夕食を摂った。
店は森の中を思わせるように木々が深く繁り、緑に包まれている。
オーガニックのそのレストランは無農薬、有機、固定在来種の野菜やハーブ、良質な肉、地元相模湾で獲れた魚介、自社輸入の自然なワイン等々、友人の拘りにはぴったりな店だった。
口にする全ての食べ物飲み物、或いは肌に触れる全てに対して、友人はその選別がとても厳しい。
その選別から外れたものは全て体に良くないということだが、彼女の良し悪しからすると、私の食に関する意識は非常に低く、非常に良くない。
だからといって彼女は人に押し付けはせず、ただ自分の良しとしている選択に従って日々を過ごしている。
楽しい食事のひとときを過ごし、再会を約束し、帰路、北鎌倉の辺りを通過して、いつだったかの寺のご住職の話を思い出した。


sunday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。稀薄なまま。