終わりが無い | かや

かや

かやです。



嗚呼、もう十分だ。十分過ぎるくらい堪能したから、もうこれで、名残りは無い。
と、ならないのがクラシック音楽だ。
とことん知り尽くすに至るどころか、何百回と弾いた曲でさえ、まだまだ解釈に余地が有る。余地が有るというより、あまりにも深すぎてまだまだほんの入り口に立ち竦んでいるような具合だ。
昨日、ショパンのエチュードを聞いていて、この練習曲集作品10の12曲、練習曲集作品25の12曲、3つの新練習曲の3曲の全27曲、その各々はいちばん短くて作品25の第9番変ト長調「蝶々」からいちばん長くても同じく作品25の第7番嬰ハ短調で、だいたいが2分かからない曲でかつてその全部を師のもとで練習し一応完成させてきたが、その短い練習曲でさえ、結局まだまだ完成形にはほど遠い。
作曲家の示す譜面通りに弾き、尚且つ表現をするということが、このエチュードは弾けば弾くほどその奥行きの深さに毎回様々な側面を見出だすことになる。


練習曲集は数多あるショパンのピアノ曲の中でも技巧性と詩情が極めて高い次元で一致した第一級の傑作と呼ばれているし、ロマン派ピアノ曲の中でもひときわ抜きん出た作品と評されている。
どの曲も作品として際立った美しさと魅力に溢れていて、短い一曲の中に深いイメージを彷彿させるエッセンスに溢れている。
尚且つ、エチュードの名の通り、アルペッジョの練習であり、半音階のための練習であり、音程差の重音奏法が課題であったり、分散和音の練習であったり、6度音程の素早い処理が課題であったり、両手による複音程のアルペッジョの練習であったり、和音によるシンコペイションの練習であったり、いちいち挙げたらキリが無いが全ての作品が全て綿密なまでに左右の指の動きの練習となるべく作曲されている。

このショパンのエチュードはいつなんどき、どの瞬間に聞いても一瞬で惹き付けられる。
その第一曲目、練習曲集作品10の第1番ハ長調の右手のアルペッジョが始まった瞬間に毎回毎回飽きずに全身の細胞が反応し、第2番3番と続く作品の虜になる。
作品10は1829年から32年にかけて、作品25は1832年から36年にかけて作曲され、前者はリストに、後者はリストの愛人ダグー夫人に献呈された。ショパンは1810年に生まれているので、作品10は弱冠19歳から、作品25は22歳からの作曲ということになる。若くしてこれだけの作品を作曲し、後世に聞き継がれ、弾き継がれ、今尚、瑞々しい感動を与え続けていることは神業いやいや使い古された表現で安易に神に例えるなどショパンに申し訳無い。



この練習曲に限らずクラシック音楽全てに言えるのだが何度聴いても何度弾いても飽きることが無い。
かつて弾いたピアノ曲に関して、かつて師事した先生のもと、練習し、一応完成させてきた曲は数えたことは無いが膨大な数に及ぶ。
その全てに関して、ではそれで完了かと言えばそうでは無いし、たった一曲何でも良いが、では今、再び、ある程度時間をかけて弾き直したとしても、それが完成形かと言えば、弾くことに飽きることも無い上に、それこそ新たな解釈も加わり、新たな発見も見出だすことになるから、その曲を完了出来るのかと言えば出来ない。
かつて終了させた全ての曲が道半ば、終わりは無い。
それは交響曲など、他の楽曲による演奏全てにも言えることで、聞いても聞いても指揮者や演奏する楽団によってその作品にあとからあとから違った側面が見えて否聞こえてくるから、聞く度にいちいち新たな感動を覚え、飽きることが無い。
と。思いながら、昨日聞いた大好きなショパンの練習曲集だが、今、再び、その作品10の第1番が部屋を満たし、瑞々しいメロディーに全身の細胞が反応している。終わりが無い。


thursday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。稀薄なまま。