良かれ | かや

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「雲烟過眼(うんえんかがん)」という四字漢語がある。雲や烟(けむり)が目の前を過ぎていくさまを表しているがそれを気に懸けないのと同じように、物事を全く気に懸けないこと、全く心に留めないことをいう。
欲が無く、物事に執着しない意味でも用いる。
武部良明氏の『四字漢語辞典』によれば、由来は北宋・蘇軾の『宝絵堂記』に、書画に対する態度として、「喜ぶ可き者を見れば、時に復た之を蓄ふと雖も、然れどむ、人に鳥去らるるとも、亦た、復た惜しまざるなり。之を烟雲の眼を過ぎ、百鳥の耳に感ずるに譬ふ」とある。書画に対して何の執着も感じなくなったことが書かれている。中国語では、過眼雲烟、過眼烟雲、なども用いる。

また類語に「虚静恬淡(きょせいてんたん)」がある。
心静かでわだかまりが無く、さっぱりしているさまを言う。虚静は先入観が無く、静かで落ち着いていること、恬淡は欲が無く心にわだかまりが無いことだ。
由来は荘子の天道篇(第十三)に「それ虚静恬淡、寂寞無為なる者、天地の平らに道徳の至りにして、故に帝王聖人これき休んず。」と記されている。
虚静恬澹とも虚静恬憺とも書き、虚無恬淡、無欲恬淡とも言う。
因みに、反対語には貪欲吝嗇、狼貪虎視(ろうどんこし)、大欲非道(たいよくひどう)などだ。


いちいち他人の動向が気になり、悉くを知らないと気が済まない人が居る。
その物見高さが良い方向に向かえば、その動向から気配りし先回りして相手に対して気の利く細やかな配慮が出来たりする場合もなきにしもあらずだが、大概は余計な口出しとなったり、ややもすると批判的な視線となる。
だいたい気が利く性質と自ら認識しているヒトは相手の立場をすぐに自分に置き換えて自分ならばこう思う、自分ならばこう対応する、自分ならばこう思って貰いたい、こう対応して貰いたいと頭に浮かべ、その「自分ならば」を勝手に遂行するきらいがある。
つまり、良かれと思って、だ。
本来それは気が利くとは言わないのだが。

常々思うが、この「良かれ」はその人が思う最善であって、極めて個人的な主観と常識だ。
それがたまたまどこかの何かに対して、或いはどこかの誰かに対して、功を奏しただけで、全てにその「良かれ」が通用する訳では無い。
その場に応じてよく才知が働き、機転が利くつもりの「良かれ」は実に迷惑で不快な場合も多い。
更には勝手にその良かれと思ったことを先回りして行動されてしまうと、それが全く余計な口出しや余計なお世話、ありがた迷惑であっても、取り敢えず、ありがとうございますと言わざるを得なかったりする。
当の本人も老婆心ながらとか余計なお世話ですがつい口出ししてしまいましただとかつい手を出してしまいましただとか言う。


老婆心とは必要以上の心遣いだが、へりくだって老婆心ながら、などと言いながら、勝手に持ち場に踏み込んで勝手な言動を押し付けているだけだったりする。
その本意は人を手助けするというよりは、沸々と沸き上がる自己顕示欲やら承認欲求が抑え切れないが故の、ある意味、突発的な言動とも言える。
その自分本意な言動に、された方は「ありがとうございます」などと言わなければならないし、勝手な判断で行なった何かに対して結局はまたやり直しをしなければならないのだから、二重に迷惑を蒙る。

プロであればある程、その行程には思考も行動も一分の隙も無く計算された動線がある。その動線に何も知りもしないで横槍を入れ、むしろ邪魔をしていることに気付かないで、求められてもいない善意を押し付けるのは単に想像力の欠如だ。
その欠如が自分本意な顕示欲となり、余計な心遣いのカタマリとなる。
自己満足の肥大とでも言えば良いだろうか。
もともと心理学用語のこの自己満足は客観的評価に関係無く、自らがとった行動に自らが満足しているだけで、其処には何ら社会性が無い。
困ったことに当人はただやみくもに「良かれ」を行使して社会と関わっていると勘違いしていることだ。気の利く自分に酔っているのだからその「良かれ」はどんどん暴走する。

移動の車で『漢語辞典』を眺めていて、「雲烟過眼」が目に入り、その反対語を眺めたりしているうちに、日常のどこかで見聞きする「良かれ」な言動をふと思い出した。「良かれ」という思考回路は相手には微塵も向かわず、身勝手なまでその当人にのみ向かっている。


friday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦。