花摘が出来て良かった | かや

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「過去とは、人間の置かれた状況によって変わる。怒りと嫉妬に狂っている時は、これまでの全てのものが悪く見えるし、どんなことを見ても悲観的にものを見てしまう時もある。過去も、現在の心次第だ。絶対不変な存在では無いのである」
五木寛之氏の著書『人間の運命』の中に記された一部分の抜粋だが、人間の置かれた状況によって、過去の捉え方はまさしく変わると感じる。
また、過去に限らず、今現在の心の状態によって、今この瞬間のさえ、状況は変わるし、心次第だと感じる。
過去が現在の心次第であると同様に、現在も今この瞬間の心次第で、全く状況は違ってくる。

解決し切れていない不満を心に抱えていれば、現在いくら幸福を取り繕ったとしても、実際には幸福では無い。
過去に消化し切れていない怒りやわだかまりを抱えたまま現在に至っていれば、過去はわだかまりの象徴でしか無く、痼として残り続ける。物事が片付いた後でも残るわだかまりを痼(しこり)と呼ぶが、その痼が今この瞬間の現在に大きく影響している。
そのことに気付いている場合は現在を矢鱈と幸福を装い、気付いていなければ現在を矢鱈と不平不満で否定する。どちらも心の持ちようは不自然だ。


昨日、メンバーシップになっているホテルのスパ&フィットネスのプールで軽く泳ぎ、ジェットバスに浸かり、ごくごく軽くサウナで過ごし、階下のラウンジでティータイムを過ごし、場所を移動し、ヘアサロンでシャンプーブローし、移動し、簡単な所用を二つ済ませたところでふと時計を見れば、予定通り午後四時だった。

今日も特別なことは何も無く、埋没していくだけの時間が過ぎたと思い、頬が弛んだ。

取り立てて言うほどのことなど無い何ら際立った印象も残らない時間は、殊の外、心地良い。

ささやかに印象に残る何かが有ったとしても、それがたとえ五分前、否、一分前であろとも一秒前であろうとも、過ぎてしまった瞬間から遠い記憶の藻屑となる。

その瞬間その瞬間だけに心は動かされ、その瞬間その瞬間の次の瞬間が間断無く畳み重なり、心は次の瞬間に移っている。


「人間の生きてきた過去の世界なぞというものは、裸の目で振り返ると無残なものだ。〈私の歩んだ道〉などという本が書ける人々を、私は尊敬せずにはいられない。何という大胆さ。そして神経の太さ」これも五木氏の『風に吹かれて』の言葉だが、そのような本をブックストアで見掛ける度に氏の言葉を思い出すと同時にそのような本の発売を心待ちにして、手にした本を開くいちばんの読者はその当人なのだろうなと思わざるを得ない。

 


夕刻、幾つかの居住場所のひとつに戻り、一段落すると夕食に招いてくれた近隣の知人が手配してくれた迎えの車が来た。
その車に乗り、三、四分ほどでその知人宅に到着する。歩いても大した距離では無い。
道のりに銀杏や桜などが並ぶ道が有り、その木々の根元に青々雑草が繁っている。
色々な雑草の中、どくだみがびっしりと地面を占領し目立っていたが、業者が雑草を一掃してしまったのだろう、茶色の地面があらわになっていた。
どくだみの白い花のように見えるのは総苞片(そうほうへん)という、質、色が変化した葉だ。
中央に黄色い穂のようなものが花穂(かすい)という。どくだみには花弁も萼も無く、花穂に先端が三つに分かれた一本の雌しべと三本の雄しべがある小さな花をびっしりと付けている。蕾のように見える閉じた白い総苞片が開くと、中から花穂が出てくる。
濃い緑色の葉に開いた白い総苞片はとても可憐で目を惹く。

一昨日、その道を住まいに向けて車で通った時に、前からずっと清楚な白い総苞片を見せているどくだみに惹かれていたが、そのどくだみの花を飾りたいと思って、たくさん摘んだ。どくだみの独特な匂いが手のひらいっぱいに漂うのも嬉しかった。帰宅して、小さな花瓶に生けた。
住まいの庭もややもするとすぐにどくだみが生えるが留守番の人が始終刈っているのでなかなかどくだみを見ることが無い。

昨日夕刻、銀杏や桜などが並ぶ木立を通過し、根元が妙にすっきりと剥き出した地面を見て、一掃されてしまう前にたくさん花摘が出来て良かったなと思った。


wednesday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。何も考えないまま。