雨上がりの朝 | かや

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かやです。



土の匂いや木々の緑の匂いが殊更強く感じるのは雨上がりだからだ。
そして、空気は澄んでいる。
目を凝らして見れば、木々の葉の一枚一枚に見事なまでびっしりと水滴が貼り付いて、そのひと粒ひと粒が空を映し、朝の清潔な陽光を絡めて輝いている。
美しいなと思う。
時折吹いてくる風にその雨粒が滑るように葉からパラパラと落ちて来る。
また、重なり合った枝の葉にたまった雨粒も不意に落ちて来る。その現象を「青葉時雨」と呼ぶ。
青葉にたまった雨粒だけでなく、本物でない時雨は色々に表現されている。木の葉の落ちる様子を時雨に見立てた「木の葉時雨」「落ち葉時雨」「木の実時雨」「虫時雨」「蝉時雨」「川音(かわと)の時雨」「松風の時雨」等々「偽物の時雨」があり、「涙の時雨」「袖の時雨」と描けば涙を表す。


昨日、朝、庭に降り立ち、湿り気を帯びた土やいっそう緑の匂いを放つ木立に包まれて、暫し過ごした。
雨の降り始めの予兆も好きだし雨も好きだし、爽やかな空気がたちこめる雨上がりも好きだ。
風に揺れた枝から落ちてくる水滴を手のひらに受けて、小さな雨粒同士が集まり、ビー玉くらいになり、そのビー玉同士が集まり、手のひらいっぱいの大きな大きな透明な玉になれば楽しいのにと夢想しながら、両方の手のひらを受け皿のように青葉時雨を集めてみる。
実際には朝陽を射し透した水滴が崩れて手のひらが濡れただけだが、清らかな心地が広がった。


屋内に戻り、木々の葉から滑り落ちた水滴を受けて濡れた手のひらをハンドクリームをくまなく伸ばすように浸透させるように手の甲にも指にも全体にも伸ばしつつ、廊下を歩み、ピアノの部屋に入る。
楽譜のリストの棚から「エステ荘の噴水」を選ぶ。フランツ・リスト晩年の名曲と呼ばれた作品だ。革新的な音楽が批判されることが増えてきた五十代後半にリストは僧籍に入る。とはいえ、下級聖職位で典礼などを司る資格は持たず、結婚も自由だ。聖職者として暮らす道を選んで以後のリストの作品は「二つの伝説」などのようなキリスト教に題材を求めた作品が増え、芸術性の高いものに霊感を得たような直観的で絵画的な作品を多く創作するようになり、作品からは次第に調性感が稀薄になる。この「エステ荘の噴水」は二十世紀の印象主義音楽に大きな影響を与えたと言われ、ドビュッシーの「水の反映」に色濃くその影響が残り、またラヴェルの「水の戯れ」も刺激を受けて作られた作品と言われている。
リストの曲調の中では珍しくキラキラとした明るさを持つ作品だ。葉から滑り落ちた水滴を馴染ませた手は疾うに乾いていた。

暫く譜面を捲り眺める。
そして、譜面板を立て、楽譜を置く。
今はそのコンパクトな利便性から電子楽譜が主流になりつつあるようだが楽譜を何冊も持ち歩くようなことは皆無なので相変わらず従来の慣れ親しんだ楽譜で十分だ。新しく購入した楽譜以外は譜面を開くとその時その時の練習を彷彿とさせる鉛筆での書き込みのあるものばかりだ。書き込みは師事していた先生によるものだが、いまだにその書き込みは役に立っている。
雨上がりの朝。青葉時雨が浸透した指が鍵盤に触れ、「エステ荘の噴水」はいっそうキラキラとした音色となったような気がした。


tuesday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。薄い。