丸い雲 | かや

かや

かやです。



それは殆んどささやきにもならないくらい小さく、もし口元を見ていれば、唇は微かに動いてはいただろうが、音声は余程近くで耳を澄ましていない限り聞こえなかっただろう。
うわあ、美味しそう。
文字で書くと表情や元気な音声が浮かんで来そうだが、実際には微かなささやきだった。
うわあ、と唇が動いた瞬間、一瞬だがドライヴァーはブレーキを軽く踏みかけ、美味しそう、と言い終わった時には軽く踏みかけた足を戻した、ように感じた。
バックミラー越しにドライヴァーがこちらに視線を向けたので「あの雲が美味しそうだなと思いました」とフロントガラスの向こう、空の丸い雲に言った。
「柔らかそうな雲ですね」ドライヴァーは目元に笑みを浮かべた。


清潔な水色の空にふんわりと丸みを帯びた雲が浮かんでいた。その丸い雲がとても美味しそうに見えて、思わず、口を突いて出た。
ささやきよりも小さく、殆んど声にはなっていなかったが、その些細な気配を背中で拾ったドライヴァーが感知して、一瞬ブレーキを踏みかけた。
大きな大きな割りばしで掬い絡めてイビツなところが無い見事な円球をした綿菓子のような雲はどのような味にも似ていない、全く初めての味がするのだろうなと思った。
甘くも無いし辛くもしょっぱくも無く、どの食材にも似た味は無いだろう、そして口当たりも食感も、どの食べ物にも似ていない。
でも、口に含んだ途端、すうっと消えてしまうのだろうなと茫漠とした空想をほんの僅かな間楽しむ間にも雲は形を変えて行き、食べてみたいなと思った丸い雲はあっという間に最初の見事な球形をとどめずにまるで違う形になった。


何かを食べてみたいなと思うことはほぼ皆無だ。思ったとしてもすぐに気持ちから消えていく。
普段から、食べ物に興味が無い。食に関してああでなければこうでなければという注文が一切無い。
体に対して良し悪しを考慮しての選別や、料理自体の旨い不味いの評価や、更には珍しいだとか高価だとか有名だとか何だとか、果てはサーヴィスがどうだこうだとか、全てに対して、何ら要求することが無い。
食事はずっと外食だが、出てきたものは有り難く頂くだけだ。残すことは無いし、味がどうあれ、或いは店がどうあれ、それに対して何か思うことは無いし、必ず美味しく頂いている。
普段、色々な店やティーラウンジで食事や軽食、或いはお茶のひとときを過ごしているが、とても美味しかったとしても、逆にそうでもなかったとしても、そのようなものかな、と薄く思うだけだし、ひとときはいつでも心地良く過ごしている。

また、空腹を覚えてもその空腹を満たすまで空腹に囚われているということが無く空腹のままで居ることが苦では無い。我慢はしていない。意識から外れてしまうだけだ。

食に対してだけで無く、色々諸々何かに対する希求はひどく薄いように思う。
何か思ってもその瞬間を過ぎると、それほどの気持ちが残っていないことが殆んどだから、自分の気持ちほど当てにならないものは無いなと思っている。そして、その当てにならない気持ちのまま、日々、大して何も考えずに弛く過ぎていく。


friday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡い。