やはりこれかな | かや

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疑心暗鬼は、疑心(うたがう・こころ)が暗鬼(くらがりの・もののけ)になるということから、くだらないことまでも疑うことをいう。この四字漢語は列子の注釈書「列子斎口義一説符篇」に由来する。ある男のオノが無くなり、隣の家の息子を疑う。疑い出すと、歩き方、顔色、言葉遣い、動作、態度、全てが疑わしくなる。
ところがオノは全く別なところで見付かった。そのあとで、その息子を見ると、動作、態度に疑わしいところが全く無かった、という。この話のあと、列子には「諺に曰く、疑心暗鬼を生ずと、心に疑ふ所有れば其の人鉄(おの)を窃(ぬす)まずと雖(いえど)も、我、疑ふ心を以て之を視れば、則ち其の件件、皆疑ふ可し」とある。
疑う気持ちがあると、そこから色々の妄想が生じることを戒めた章だ。

とらわれの心から真実でないことを真実だと誤って考える妄念が不信感や不安と共に増幅する。根拠の無い有り得ないような内容にも関わらず、確信を持ち、事実や論理を訂正することが出来ない主観的な信念を妄想というが、ちょっとした疑いからあらぬ方向に思惟が向き、軌道修正出来ないままになることは、事の大小やその深刻の度合いに関わらず、起こり得るのだろう。


昨日、出掛けに書棚を眺めていて、普段全く目にも入って来なかった棚から一冊引き出したのは島崎藤村の「破戒」で、その場でパラパラと捲り、閉じる瞬間、〈…いわゆる疑心暗鬼というやつだ。耳に聞こえる幻、それが今夜聞いたような声なんだ…〉という箇所が目に飛び込んだが、そのまま閉じてもとの場所に戻した。

そして、全く違う棚から八隅裕樹氏訳フランツ・リスト著「フレデリック・ショパン-その情熱と悲哀-」を手に取り、昨日移動の間に間に前後関係無く開いた頁を眺め、早い時間に帰宅してからも眺めた。何年か前に何度目かを読んで以来だったので久しぶりだった。
真摯な尊敬と、情熱的な敬意と、友を失ったことへの猛烈な悲しみを添えて、これらの文章を捧げよう、そう記したリストのショパンという盟友への敬愛に満ちたこの著はショパンの生涯と芸術性を見事に描き出した名著だ。ショパンと双璧をなして、ロマン主義音楽の精華を極めたリストによるショパンの伝記でありショパン論でもある。
リスト自身の思い出や見解だけで無く、友人たちの回想や協力者の意見など幅広い情報を総合する形で執筆している。ショパンの魅力もだが、孤高の超絶技巧ピアニストのリストのイメージを刷新してくれると評価されている通り、リストの気高い精神性や慈愛に溢れた人柄こそが名曲「愛の夢」にも通じるリストの知られざる真価であることが文面の端々から滲み出て、描かれているのはショパンだが、リストの様々な名曲が浮かんでくるような一冊だ。


出掛けに一瞬手に取り開いた島崎藤村の「破戒」の頁の一瞬目に飛び込んだ一文の中の疑心暗鬼という文字から、その由来などを思い出したりもしたが、別な棚から久しぶりに選んだリストの名著「フレデリック・ショパン」は真摯な尊敬と、情熱的な敬意と、友を失ったことへの猛烈な悲しみを添えて、これらの文章を捧げよう、とリストが記した通り、ショパンに対する尊敬と敬意に溢れた一冊に、昨日終日心を洗われるような思いのまま過ぎた。
良い本を選んだ一日だった。
そして、日を跨ぐ前、ピアノの部屋で楽譜のリストの棚から、やはりこれかなと愛の夢第三番変イ長調を選び、鍵盤の前に座った。



白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。特に何も無いまま。