憐憫や同情の余地は無く | かや

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久しぶりにハロルド・チャールズ・ショーンバーグ氏の『大作曲家の生涯』を行きつ戻りつ適当な頁から眺めた。
アメリカの音楽評論家でジャーナリストのこのショーンバーグ氏の三巻本はとても面白い。八十一年の改訂版を購入しているので実に四十年以上前の著書だ。
日本語訳書は他にも『ピアノ音楽の巨匠たち』『偉大な指揮者たち 指揮の歴史と系譜』『ショーンバーグ音楽批評』などがあるが、音楽評論家として初のピューリッツァー賞を受賞し、音楽に関して多くの著書を残し、チェスプレイヤーでもあり、チェスの著書も一冊ある。
八十年代にはウラディミール・ホロヴィッツ氏の回想録の準備を手伝っていたことを明らかにしたが、途中で頓挫した。その理由はホロヴィッツ氏の「選択的な記憶」(過去の歪曲)や同性愛者だったホロヴィッツ氏の性生活に関係していたという。


三巻本の『大作曲家の生涯』はクラウディオ・ジョヴァンニ・アントニオ・モンテヴェルディから現代に至る主要な作曲家たちの生涯をたどっているが、作曲家の偉大なところもダメなところもかなりはっきり書きつつもある種の敬意がきちんと払われていて、好意的に書いてはいるが決して偶像化はしない。
後世に無かったことにされてしまった作曲家の生の姿を知ると、金に執着し、素行に問題を抱えていたり横暴極まりなかったりと、どうしようもない人たちが、何故あんなにも人を惹き付け感動させる素晴らしい曲を作ることが出来たのかと不思議な気持ちになるし、興味も一層わいてくる。
プッチーニは音楽以外は人間的にクズだった、モーツァルトは生活者としては失格だったし、楽聖と呼ばれたベートーヴェンもしかり、シューマンはセックスした日に赤印を付けていた等々、勿論、稀にリストのような人格者も居るが、大概がとんでも無く呆れるくらい人間味を帯びている上、奇行も多い。
芸術の歴史は他人を踏み台にし、利用するものを利用し尽くして自分が生き延びることだけを考えてきた人たちの歴史でもあると評されても仕方ないような姿は、多くの史料から取材していなければ分からない側面が浮き彫りとなることで結果的に作曲家たちの作品がいっそう魅了的に思えてくるという意味でも著者ショーンバーグ氏の深い造詣ときめ細やかで徹底した論証から成立した著書でもある。


徹底した取材と論証から成立した書物がある一方で、史実とはかけはなれて面白おかしく一面のみを掬い上げて誇張したフィクションは映画やドラマ、劇画など様々に表現され、それがフィクションであるにも関わらず、影響をもたらしてしまい、間違ったイメージが罷り通ってしまっていることは様々なジャンルで多く有る。
それはそれで娯楽として成立しているのだから何ら問題がある訳では無い。
時に天才的な能力を実際にも持つ人々も皆無では無いが、それは非常に稀なことだ。
しかし、何も知らずに自身を装飾する為にそのような天才的な能力を騙り、自身を大きく見せようとする人も中には居る。
フィクションの創作物から得た安っぽいエピソードを手本に当人はファンタジーの中に身を置いた自分にうっとりし、周囲を騙しおおせているつもりだろうが、そのジャンルに精通している者からすれば、否、精通していなくともある程度知識があれば、勿論、すぐにそれは滑稽な嘘だと分かるし、何も知らないことをわざわざ知らしめているに過ぎないのだが、そのような薄ら寒い嘘に遭遇するとフィクションの影響力を感じずにはいられないがそのような人にとっては虚構こそが唯一の支柱となり得ているということには憐憫や同情の余地は無く、失笑し呆れるばかりだ。


sunday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。薄い。