同じようなタイミング | かや

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一般に人間の耳は二万ヘルツ以上の音を識別することが出来ないというデータに基づいてCDは二万ヘルツ以上の音をカットしているが、その音に厚みを感じられず、アナログ音声記憶媒体のLP並みにするには四万ヘルツ程度が必要だとされているが、科学的なデータでは聴こえない筈の音が人間には聴こえているということになる。聴こえているというよりは感覚的な領域なのやも知れない。
また似たようなことでしばしば言われているのがストラディヴァリだ。およそ四百年前に作られたヴァイオリンだ。十七、十八世紀にアントニオ・ストラディヴァリの製作した弦楽器が特に有名だ。
ストラディヴァリウスはイタリアのストラディヴァリ父子三人(父アントニオ、子フランチェスコ、オモボノ)が製作した弦楽器のことだ。つまり、通常「ストラディヴァリウス」と言った場合は楽器を、「ストラディヴァリ」と言った場合は楽器製作者を指す。


ストラディヴァリは家の居間などで弾いても頼りない小さな音しか出ないが、大きな会場でオーケストラと共演すると場内にその音が響き渡る。厚いオーケストラの音にマスクされること無く、良い音がのびのびと響く。
その音の響きを科学的に解明して同じ音を作ろうと様々な科学的解明を試みるも技術をもってしてもその原因は完全には解明しきれていない。
また同じく、人は何故音楽を聴いて感動するのかということも科学的には完全には解明しきれていない。技巧に優れていることが必ずしも人を感動させているとは限らない。そのように科学では解明出来ない人間の神秘的というか超自然的なところが芸術という部分なのだろう。というような議論がアナログからデジタル化が急速に進んだ三十年も四十年も前に交わされていた頃から、芸術という概念そのものが既に大きく変わりつつある今は更には人間の感性の領域もAIが再現出来てしまえているようになり、最早、何十年も前にある種の杞憂を含んだ議論など彼方遠く褪せてしまっている。
というようなことを漠然と思いつつ、昨日プールで泳いだ。


昨日朝からメンバーシップになっているホテルのスパ&フィットネスで過ごし、移動し、ヘアサロンでシャンプーブローし、二つ簡単な用事を済ませ、夕方友人女性と合流し、夕食のひとときを和食の店で過ごし、店を出たところで入れ違いに入る客が何十年来の音楽家の友人男性だった。
友人は「今朝何と無くまきちゃんを思い出していた」と笑顔で言った。今朝思い出していたのも、こうして遭遇したのも偶然では無かったと友人は喜び、「あ、そういうのまきちゃん好きでは無いよね」と笑った。
そういうのとは、全ての帰結を必然と捉えることだ。
事象の全ては必然の帰結なのだろうが、あまのじゃくなのでということにして、全ては偶々そうなだけ、バラバラな偶然の堆積でしかない、と根拠は無視して薄く曖昧に全てを流している。
たぶん何もかもを結び付けるのが鬱陶しくて好きでは無いのだと思う。何でも面倒くさがり置き去りにしたい私はそのように結び付けるのが単純に鬱陶しく単純に面倒なのだ。
友人男性とふた言み言、簡単な近況を互いに交わし、握手をして再会を約束し、別れた。

帰路、車窓に流れる夜の街をぼんやり眺め、午前中プールでぷかりぷかり浮かびつつ漫然に頭の中で浮かべていた科学的には解明しきれていない音のことなどは遭遇した音楽家の友人と何十年も前しばしば話していたことだったことに気が付いた。プールでは友人男性のことはまるきり思い出していなかったが、同じようなタイミングだったのだなと思ったが車窓のまだ大方円い月に気持ちは移った。


monday morning 白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。淡くおぼろげなまま。