ヒドイハナシ | かや

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ブッダは『経集(スッタニパータ)』の中で「自分の見解が勝っていると執着して自分の見解を上に見るなら、それ以外の全てを〈劣る〉と思うようになる。故に人は論争から抜け出せないのだ」(第七九六偈)と説き、「自分の意見に執着して議論を仕向けてくる人がやって来たなら、〈議論に応じる者はここにはいない〉と返して肩透かしをくわせると」(第八三二偈)と説いている。
更にブッダは「自分を他人より勝るとか劣るとか、等しいとか思わないように。如何なる見解をも心に持たないように」とその言葉は続く。

人は他人に対する優越感を求め、劣等感に腹を立てるが故に、自分の見解に拘って言い争うのだということを常に喝破していた。

ブッダは論争を仕向けられることがあっても「自分には戦わせるべき見解は何も無い」と答え、言い負かそうとしなかったからこそ、勝る・劣るという勝負を抜け出していて、だからこそ論敵にも感銘を与えることも出来たのだろうと言われている。



自分の有力さや有能さを実感したいという衝動故に、人は〈自分の見解は正しく、あなたの見解はおかしい〉と思いたがるバイアスにいつも囚われている。
言った言わないというような些細な会話から発生する不毛な水掛け論は、内心では相手が勘違いして忘れている、よもや自分が忘れて勘違いしているとは思わず、正しいのは自分である筈だと考える楽観性が基本発想となる。だからこそ水掛け論になる訳だがそれだけで終わらず、明らかに相手の言い分に誤りがあると確定した場合、つまり、メール履歴などから何らかの証拠が出てきて、交わしたやりとりから相手が忘れていて、自分が正しかったと分かり、相手を責めたり、追い詰めたりする。としたら、それはずいぶんと品性の無いことでもある。たとえ、自分の見解や記憶が正しかったとしても思いとどまるというのがブッダの『経集』の中の言葉の意図することだろう。


またブッダは『削減経(サッレーカスッタ)』の中でも「他の者は見解を捨てられずにいるが、我々は見解をやすやすと離れられるようにと修習しよう」と説いている。何かに対する自分の見解が相手とは異なった場合、見解のぶつけ合いとなり、自分の見解の正しさを守ることにムキになり心穏やかでなくなるより、自分の見解は保留して、そのような見解もあるのだなと譲れる勇気や余裕を持つということだろう。

昨夜、久しぶりにブッダの言葉や教えなどを説いた何冊かの書物を眺めた。
小中高十二年一貫の浄土真宗の仏教校に、中学から入学し中高六年間、ブッダの教えは授業や毎週の学院長の講話で繰り返し聞かされ、繰り返し経典などを読んでいて、あまりにも日常の中に教えが氾濫、否、氾濫とはずいぶん不適切な言い方だが、徹底して氾濫していたが、その悉くはまるで響いて来なかった。
そのような教えなのだなという認識を超えたことは皆無だった。おそらくそれは生徒全員がそうだったように思う。だからこそ卒業後、逆に妙な信仰心を抱いたり微妙な宗教に今更わざわざ傾倒するような卒業生はまず皆無に感じる。ましてやある日突然芽生えた信仰心から如何に自分がシュギョーを重ねているかを申し述べたり何らかのオシエやらアリガタミを他者に押し付けるような輩も居ないだろう、そのような対極に在ることくらいは知っているから。

因みに仏教には何ら関連は無く、自宅から歩いて通える私立女子校というだけで親が選んだ学校だったが、殆んどが宗教的には全く仏教校である必要性の無い学生ばかりで勿論宗派もバラバラだし、そもそも日常で自身の家の宗派を意識することなどあまり無いし、寺の娘はたぶん学年にふたりか三人くらいだったように記憶している。

授業としての教えはそのまま中間試験や期末試験に関わるから、数学や物理などと同列で学科のひとつとして捉えていただけだったから、いちいち心に響いて留まるような「教え」は何一つ無かったが、何十年経た今でも、色々な書物に説かれているブッダの教えは遠く消え去っていた記憶を呼び覚まして重なる。
重なるが、嗚呼、そのような教えも授業に有ったなという程度で、それ以上の何かを感じたり有難いと思う殊勝さは微塵も無い。ヒドイハナシだ。


wednesday morning白湯を飲みつつ窓越しに空を眺める。


本日も。適当。