最後の言葉を思い出す | かや

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かやです。



昨日、マシンピラティス&コンディショニング後移動して、リンパドレナージュの施術後移動して、ティーラウンジで暫しティータイムを過ごし、移動してヘアサロンでシャンプーブローを終えて、午後三時。特別何かをした訳で無く、あっという間に時間は何処かに消え去って行く。
風の強い一日だった。南の風が時折とても強く吹き付けては散り去って、また力強く吹き付けて来る。
俳諧では夏になって南から吹く季節風を「南風(なんぷう)」「南風(みなみ)」「南吹く」「はえ」「まじ」「みなみ風」などの季題を用い。烈しい風を「大南風」と呼ぶ。
暦上、今年は五月五日に立夏を迎えてはいるが、季節風というよりは荒天の予兆を思わせるように吹き抜け浚い続け、地上は生き物のように唸り声をあげ、吹いてくる風にまるで地上そのものが何かの楽器のように様々な音をたてていた。
地上全体が大きな楽器で、風がその楽器をふううと吹いて奏でているようで、風の日はそれだけで楽しく過ごせる。
曇天も雨も好きだが、風が地上という楽器を奏でているようで面白いなと思う。


この時期にだけ駅名の一部をカタカナにする駅がある。つい何日か前はその界隈を車で通過して、駅名の一部のそのカタカナ部分の宛字から、嗚呼そうか「母の日」が近いのだなと気付いたが、昨日は移動の間に間に、商業施設やら色々なところで、プレゼント用の商品が並び、フラワーショップはやはりプレゼント用のカーネーションで彩られていた。

母の愛情に感謝する「母の日」の行事はもともと、終戦後、アメリカの影響で始まったことだ。
萩谷朴氏『風物ことば十二ヶ月』の中で解説している母の日の由来は、十九世紀終わり頃、アメリカ東海岸ウェストバージニア州の片田舎ウェブスターという町にミセスジャービスという女性が居た。その町のメソジスト教会を属する日曜学校の先生を二十六年間勤めた真面目な女性だが、若い頃に夫としべつし、二人の娘を抱え、そのうちの一人は盲目だったから、苦労は並大抵では無かった。やがて日頃の過労が祟り、二人の娘を残してこの世を去ってしまう。娘のひとりアンナはある日母の勤めていた日曜学校で追悼会を開き、亡き婦人の徳を偲び、多勢の人々か集まり、なかなかの盛会となった。娘のアンナは母が常々日曜学校の教壇に立ち「汝の父と母とを敬え」と繰り返し繰り返し説いていた聖書を思い出し、「どうしてお母さんが生きているうちにもっとお母さんの愛情に感謝して孝行をつくさなかったのか」と悔やんだ。
その時、夫人の霊前には一籠の純白のカーネーションの花が手向けられていて、集まった人々の心を惹き付けた。
その後、ミス・アンナ・ジャービスは知り合いの人々の賛同を得て、一九〇八年、シアトルの町で初めて母の日の催しをしたが、これが大層な評判となり、各地で催されることとなった。その結果、一九一四年アメリカ合衆国連邦議会では母の日を国家的な行事とするという案が可決され、アメリカ以外のキリスト教の諸国にもだんだんに広まった。
因みに元来は、母親が生きている人は赤いカーネーションを、亡くなっている人は白いカーネーションを一輪胸に挿すことになっている。母の恩を感謝する為に子どもが自分の胸に挿すのであって、母親に贈るのでは無いのでお間違え無くと恰かも商戦に便乗することにほんの少し揶揄した感じで解説を締め括っている。
母の日に感謝の意を表して胸にカーネーションを挿している人など見掛けたことなど無く、ただただ贈るものとしてカーネーションは店頭に並んでいる。


母を知る人は皆、口を揃えて物静かだと言い、優しいと言う。その通り、いつでも穏やかで、声を荒らげたことは一度も無かったし、そもそも怒っている姿を見たことは無く、よく有りがちな勉強しなさいをはじめ、○○しなさいという命令口調の台詞はそれこそ一度も母の口から聞いたことが無かった。
いつなんどきも優しくておとなしく、静かに見守ってくれていた。「お母さまはお料理がとてもお上手でしたね」と回りの人は言っていたが、料理教室に通っていたり、様々な料理のシェフを自宅に呼んでずっと何十年も習っていて、それは料理が好きというより暇だったからかも知れないが、珍しいメニューがしばしば食卓に並んでいた。また、一緒にキッチンに立てば、魚を捌くという基本的なことから、何気無く色々なことを教えてくれたので、和洋中を問わず大概の料理は母のレシピで調理出来る。
母が他界した後も母を知る人に会うたびに物静かで優しかったと言われ続けているが、言われるまでも無くその通りで、子どもの頃からずっと同じままいつなんどきも物静かで優しく、母の記憶に嫌だった思い出はひとつも無い。
何かほんのちょっとした些細なことでも喜んでくれて、同じ家の中に居ながら、短い何行かの文言と共に、まきちゃん、ありがとうと記した紙が畳まれて、部屋の机に置かれていて、その日常的な母の縦書きの達筆な文字すら物静かで優しかった。
母は他界する十年ほど前から体調に不具合をきたしてしまい、その頃から日常の身の回りのことを全面に見ていた。
最後、母は入院することとなり、その頃には父のことも妹のことも全く分からなくなり、妹が来ても「にこにこした人が来ていたわ」などと言い、唯一、私のことだけ認識出来ていた。
入院生活をはじめて、何週間かが過ぎたが、その日も何時間かを病院の母の部屋で過ごし、ベッドの母にそっと抱きついて「また明日も来ますね」と言うと、横たわたままの母から「ありがとう」と言われ、部屋のドアに向かって歩き出すと、「まきちゃん」と母は私を呼び止めた。
「なあに」と枕もとに戻ると、母は手を差し伸べ、その手を握り返すと「まきちゃん、ありがとう」とほんの数秒前も言ったのに母はまた私にそう言った。
「ううん、何を言っているの。まきこそ、ママありがとう。また明日来ますね」と手を握り、部屋を出たが、その日の夕刻から昏睡状態となり一ヶ月ほど全く目を開けることも反応することも無く息を引き取った。いやはや。巷では〈おかあさんありがとう〉が蔓延するこの時期、ママありがとうどころか、母からありがとうを言われたのが母の最後の言葉となり、よくよく考えたらいつでも母からありがとうと言われていたという。
五月は母の命日が後半にある。
店はどこもかしこも〈おかあさんありがとう〉の文言が氾濫するこの時期になると、母の最後の言葉を思い出す。


sunday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。稀薄なまま。