どちらもどちら | かや

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完膚無しといえば、相手を徹底的にやり込めること、無傷な部分が無くなる程相手を攻撃することをいう。または、原文の箇所が無くなる程に文章を訂正する意にも用いる。「完膚」は完全な状態の皮膚のことだ。
出典は唐書「劉迺(りゅうだい)伝」に由る。
復遣偽相蒋鎮慰誘。迺佯瘖不答。灸無完。鎮再至、知不可脅膚。
復また偽相蒋鎮を遣わして尉誘す。迺佯いつわり瘖して答えず。灸して完膚無し。鎮再び至り、脅すべからざるを知る。
(朱沘(しゅせい)が反乱を起こし、徳宗は都を逃れた。劉迺(りゅうだい)は病と称し、自宅に引きこもって政権を簒奪した朱沘からの誘いを断っていた。)朱沘は、再び大臣にした蒋鎮を遣わして劉迺を誘ったが、迺は口がきけないふりをして返答もしなかった。蒋鎮は腹いせに迺の全身に灸をすえて、その時は帰った。暫く経って蒋鎮は迺の気持ちに変化の無いことを知り、脅かしても効果の無いことを悟った。

全身に灸をすえて膚を傷めることが語源ということだが、この劉迺伝からも読み取れるように、蒋鎮が唐の王朝に反乱を起こし、同僚である劉迺を寝返らせようとしたが、劉迺は王への忠義ゆえに回答を拒否し、それに腹を立てた蒋鎮が傷の無い肌が無くなるくらいの苛烈な拷問を劉迺にあたえた。つまり、拷問によって傷の無い肌が無くなってしまったことから「完膚無し」は徹底的に叩きのめすことを意味することばとして広まったということだ。


完膚なきまで論破された、完膚なきまで打ちのめしたなどと用いられているが、完膚なきまでで想起するのは夏目漱石の日常に題材を採ったものやロンドン留学時代に題材を採ったものなど二十四作品からなる「永日小品」の中の〈クレイグ先生〉という作品だ。「永日小品」中、いちばん長い作品で、イギリス留学中に英文学の個人授業を受けたウィリアム・クレイグの生活と漱石との交流が描かれている。その文中、原文の箇所が無くなる程に文章を訂正する意で用いた一文がある。
「…すると先生はさも軽蔑を禁じ得ざるような様子でこれを見たまえと云いながら、自己所有のシュミッドを出して見せた。見ると、さすがのシュミッドが前後二巻一頁として完膚なきまで真黒になっている。自分はへいと云ったなり驚いてシュミッドを眺めていた。先生はすこぶる得意である。…」

一般に、完膚なきまで、を用いた状況は、徹底的で容赦の無いこと、ぐうの音も出ない、こてんぱんというような、やり込めるという意味では最上級の表現で、全く情状酌量の余地も無いように感じる。
このような表現となるようなことは、小説や物語の中に有っても、日常生活の中では自身が直接関わるような状況はあまり有ることでは無いだろうし、無いに越したことは無いし、出来れば、その表現を使うようなことには自身に全く関わりが無くとも遭遇したくは無い。


昨日、ヘアサロンでシャンプーブローの後、場所を移動して、ホテルのラウンジでティータイムを過ごした。
ラウンジはほぼ満席で、案内されたテーブルの隣のテーブルは女性四人が既にずいぶん過ごしていたであろう感じで過ごしていた。
何やらほんのり険悪な空気が漂っていることがすぐに分かったのは、ひとりの女性がやや強い口調で「聞き飽きたし、もう聞きたくも無いわ」と正面に座る女性に言い放ったからだが、オーダーした紅茶とサンドウィッチがテーブルに運ばれ、そして、それらを口に運んでいる間、やや強い口調の女性が、正面に座る女性の今まで言っていた様々な事柄のひとつひとつを否定し、その度に、弁解を試みる相手に間髪を入れず悉くを否定した。内容はあまりにも嘘の定番中の定番とも言える学歴詐称と肩書きや経歴などの詐称だった。
因みに間髪を入れずは、カンパツを入れずでは無く、カン・ハツを入れずだ。間に髪の毛一筋も入れる隙間も無いことが語源だ。
嘘を如何にも有りそうな嘘で塗り込めているであろう弁明そのものを全て具体的に女性は強い口調で打ち消す。
その嘘の内容も恥ずかしいが、嘘であることの揺るぎ無い証拠を突き付けられるとは、努々思っていなかっただろうし、その突き付けられた現実はあまりにも恥ずかしく惨めだし、とてもでないが聞くに耐えない。聞きたく無いがやや高めの音量の女性の声はまるで周囲にその嘘つきをわざと知らしめているかのようでもあった。
その険悪な空気が伝播するテーブルに座っているのは嫌なので、通りかがったスタッフを呼び止めて、会計を頼んだ。
レシートを持ってくる僅かな間に、「嗚呼そうだわ。あなた人前でピアノを弾くのがお好きだと言っていたわね。今、あのピアノで弾いていただけない?」ラウンジには生演奏中で女性奏者の弾く美しいショパンのワルツが優雅に聴こえている。
「でも演奏中だし」と女性は応える。
「あのワルツが終わったら、あなたが弾いてね。今、マネージャーを呼ぶわ」と強い口調で「飛び入りで演奏させて貰うことが出来るのよ」と言った。
そして、実際に手をあげて、スタッフを呼び、「○○マネージャーをお願いします」と女性は言ったところで、嘘を暴かれ続けている女性が「最近、○○○○で、手が動かせないの」と具体的な病名を言った。
言った途端、今まで黙っていた他のふたりがプッと吹き出したところで、スタッフが会計を終えてレシートをテーブルに持ってきた。

会話の流れからは絶対嘘だろうなと分かるような嘘だが、咄嗟にこうして、嘘を嘘で塗り固めているのだろうことがよく分かる。

レシートを受け取り、スタッフは深々とお辞儀をして立ち去る。受け取ったレシートは二つに畳んで二センチほど裂いて、そのままテーブルに置いて、立ち上がった。レシートはなるべく財布に入れたくない。
完膚なきまでにやり込め、完膚なきまでにやり込められている見本のようなふたりだったが、どちらもどちらだなと思った。
出口に向かって歩いた。背中では今は大好きなシューベルトの即興曲変ホ長調作品90の2が軽やかにラウンジを満たしていた。



saturday morning白湯を飲みつつ空を眺める。

本日も。適当。