本懐 | かや

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江戸時代の禅僧白隠禅師の言葉に「動中(どうちゅう)の静(じょう)は静中の静に優ること百万倍」がある。
慌ただしい中でも静寂を保っている状態のことで、よく「動中の静」と使われているが、禅では静かな自然の中や山中の庵で静寂を保てるのは当たり前だが、雑踏などのうるさい環境の中でも静けさを保てることが尊いと教えている。
また、人里を離れた山中でひとり静かに過ごすことを「山中の山居」と言う。
晩年出家し、京都の日野山に小さな庵を結び、そこで鴨長明が綴った『方丈記』の中に出てくる言葉だ。
冒頭の「ゆく川の流れは耐えずして、しかも元の水にあらず」はあまりにも有名な一文だが、静かな山中で彼が辿り着いた無常観をよく表している。
誰にも邪魔されず、鳥の囀ずりや葉擦れの音に耳を傾けながら心静かに一日を過ごす。そのような隠遁生活は禅僧の修行の理想とされ、実際に密教を学んだ西行や曹洞宗の良寛などの名僧をはじめ、多くの禅僧が山中での修行生活を送っている。

坐禅によって心と体が整えることによって穏やかに澄み渡った境地へと辿り着ける。

茶人千利休は日常でひとり静かに過ごすことを「市中の山居」と名付けた。冒頭の「動中の静」と同じく、如何なる場所であっても自身を見つめる時間を作ることは出来、心を自由気ままに遊ばせることが出来、次の一歩を決めるための大きな指針を与えてもくれる。


二千年以上続いてきた「坐禅」だが、その効用がここ数十年の間に医学的に解明され始めていると庭園デザイナーで曹洞宗建功寺住職の枡野俊明氏は幾つかの著書に記している。
坐禅中は精神を安定させるα波が出て、脳を活性化させ幸福感をもたらす脳内物質セロトニンの分泌が促進されることが実験で分かった。良い影響は精神面だけで無く、坐禅によって血管が広がり、血流が二割以上アップするという実験結果も出ているらしい。良いこと尽くめの坐禅だが枡野氏によれば、歩行中や、駅のホームや電車の中で立った状態での立禅や、寝ながら出来る坐禅、深い呼吸を数回繰り返すことで気持ちを切り替える一息禅など、四十分程度が一単位となる本格的な坐禅とは異なる簡易な坐禅を紹介している。いづれも基本は姿勢と深い丹田呼吸だ。
姿勢が整うと自ずと呼吸は深くなる。
昨日、寺院の入り口に毎週日曜は坐禅体験というような看板が視界に一瞬入り、移動の車は通過して、ふと坐禅のすすめを記した枡野氏の著書を幾つか思い出した。


野外イヴェントや坐禅体験などを行なう寺はとても多いが坐禅をしてみようと思ったことは一度も無いし、そのような場にはたぶん行くことは無いだろう。

坐禅に限らず全般に渡って何かを得ることになるかも知れないとか変化をもたらすかも知れないというような期待や興味を抱くことが皆無だからだが、何かに対して興味を持たなくなったらオシマイだとかボケるとか老いるとかツマラナイ人生だとか、アンテナを巡らせて積極的に様々なことに興味を巡らせて活動的に日々暮らしている人からは言われる。

物心ついた子どもの頃からずっとそうだったから、既に小学生低学年の頃から筋金入りで人生オシマイでボケていたことになる。ある意味、その通りだし、それで十分だとニヤニヤしてしまう。

生まれた瞬間から老いに向かうのは自然の摂理で抗うのは無駄な抵抗だ。言ってはナンだが、年齢より若く見えると言われた時点で既に若くない。勿論自己満足が活力にはなり得るやも知れないが、実年齢は厳然としてあるのだから、あくまでも自己満足に過ぎない。また長生きは目標にするのもでは無く単なる結果でしかない。

かといって、では一瞬一瞬に集中して今この瞬間を全うしているのかと言えば、まるで全うなどしていない。どうしようもないくらい雲散霧消し続けている。

生まれてこのかたザルの大きな目から全部漏れ落ちてしまっているような歳月を送っているがそれを勿体無いと思ったことも無いし、力むこと無くひたすら弛緩しきったままだ。頑張るとか努力とか濁音の単語が苦手でずっと避けてきたから、最早、頑張り方も努力がどのようなものなのかも分からないし、退屈な死人のように過ごしている。退屈なのも死人のようなのも本懐だ。加えて言えば孤独も至福だ。



saturday morning白湯を飲みつつ、まだ明けない空を眺める。

本日も。薄い。