Internet slang | かや

かや

かやです。



何年か前、『三省堂辞典』に載ったことで話題になったようだが、いわゆる国語辞典には掲載されていない。
もとはアニメ作品に登場した用語で、作中では太古に封印された宇宙戦争の歴史のことで、漫画やアニメなどの分野で面白くなかったり、ファンの期待を著しく裏切った作品や設定などに対し、〈無かったことにしたいこと、無かったことにされていること〉などを意味して、黒歴史という言葉が使われている。
そして、転じて、自分自身の他人に触れられたくない、もしくは自分でも恥ずかしく思う自分の過去のことを、黒歴史と言うこともある。
当初はアニメを中心とするサブカルチャーやそれに類する分野を中心にそれらのファンたちにより劇中用語を引用して隠語的に使用されていたものだったが、電子掲示板などで広く普及し、一種のネットスラングとして定着した。
更に、俗語としての元の由来を知らない人にも、日本語として使われるに至った。


要するに俗語、ネットスラングなのだがなかなか身近な日常では目にしたり耳にすることが有るようで無い。
それにしても、そのての俗語は良い余韻が残らない。一気に文脈全体がその俗語に象徴されてしまうような印象になってしまう。
そもそも古くから愛用している小学館『国語辞典』には当然のことながら載っていない。この辞典が基礎となり私の乏しい語彙が小学生の頃から成立しているので、それ以外の単語を用いることが無いし、辞典に無い単語に縁は無い。しかも未だにその分厚い辞典に網羅された単語全てを用いたかと言えば用いていないのだから、生涯で用いる単語などたかだか知れたものだとつくづく思う。

決して知られたくない、触れられたくない、恥ずかしい過去は、誰も聞きもしない環境で唐突にわざわざ自分からつらつら述べたりはしない。
それを敢えて黒歴史という表現で勿体ぶって卑下した前置きをして自ら公言するのは、それが知られたくない内容だからでは無く、むしろその逆で、知られたい、自慢したい、更にはスゴイ、あわよくば大きくリードしたいという姑息な計算が透けて見える。

誰も尋ねもしないのに唐突に話題を振って自己申告した内容は誰が聞いてもいささかの恥ずかしい片鱗も無く、むしろ立派な内容だ。
こう見られたいという自己像、それが有能な人物に見られたいと思えば、有能さや思慮深さを意識した言動を心掛け、気持ちの良い人物に見られたいと思えば、謙虚さや気配りを意識した言動を心掛け、優しい人物に見られたいと思えば、優しい思い遣りを意識した言動を心掛け、誠実に見られたいと思えば、誠実さを意識した言動を心掛ける。それを自己呈示と呼ぶ。
自己呈示とは、こんな風に見られたいという方向に自分の印象を調整することで、社会学者ゴフマンは、他者に一定の印象を与えるために自己呈示を行なうことを印象操作と呼んだ。


印象操作とは随分作為的な響きだが、黒歴史などとネガティヴな前置きをして、その本来の意味からは逆行して立派な数々をしれっと相手に植え付けるあたり、自己呈示に非常に長けていると言えよう。
しかし慮るに、そのような歪んだ自慢は全てその人の理想の最終形である場合も考えられる。
実際のその人の本当の黒歴史は自己申告した華々しい内容とは真逆、つまりはそれら全てが欠如した過去で、当人にとってそれこそ絶対に知られたくない、絶対に触れられたくない、恥ずかしい取り返しの付かないことだったり、決して知られてはならない虚構で構築し全てだったりする。おそらくネットスラングを用いていることには意識は向いていないだろうし、自戒を込めた告白でも勿論無いし、単にあからさまな自慢、その悉くが欠如した部分を虚構で作り上げたものだが、オブラートに包み、更には打ち捨てたいという否定的なニュアンスで、その実、持ち上げるという作為的な言い回しとしてうってつけな単語となっている。

昨日、移動の車で久しぶりに眺めたM・スコット・ペック氏の『平気で嘘をつく人たち』から、黒歴史を騙る自慢、それが既に虚言という人がいるといういつだったかの雑談で話題になった人のことを思い出した。


friday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。薄い。