全く思い付かなかった | かや

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それが好ましい人も居るだろうが、わいわいガヤガヤ時間を忘れていつまでも過ごすということが全く好きでは無い。繊細な人に有りがちな過剰に音に反応する訳では無いし、空気の悪い雑踏や街の喧騒など何とも思わないし、時間は無意識のうちにいつでも膨大にしかも無駄に霧散させているが、何故だか、親しい仲間であってもわいわいガヤガヤという会話は好きでは無いし、エンドレスに同じ場に居ることも好きでは無い。
好きでは無いを換言すれば、飽きてしまったことに耐え難いから微塵も耐えずにそのような場をあからさまに避けている。
よく店などで遭遇する音量を取り違えて声高に喋る人は耳が悪いのかなと思う。ついでに頭も。そのような周囲の音量をはかることが出来ない人が身近に居なくて本当に良かったと思う。
友人たちと会っていても、ひとつの場所に長居をすることはまず無い。場所を変えたり、或いは切り上げたりする。
何か用がひとつ済む度にティータイムを過ごしているので、わいわいガヤガヤとエンドレスに長居をしているグループに遭遇しがちだ。グループとはひとり以外の複数人だ。楽しさが相俟っていつの間にか音量調節機能や分別が鈍麻してしまっているのだろう。単独ならば決してそのような醜態にはならないだろうが群れた途端ネジが弛むのだろうか。


1835年、フランスの政治思想家アレクシス・ド・ドックヴィルが最初に遣い、1930年、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが盛大に使用した「マス」という言葉が、日本では「大衆」と訳され、それが近代日本の社会論をどれ程深い混乱に引きずり込んだかは計り知れない、と西部邁氏は『保守の遺言』の中で記している。
マスがブーワード(非難語)であるのに対し、大衆は多少なりともフレーワード(称賛語)であるからだ。
「砂粒の山のように、一個ずつバラバラでありながらも、砂山のように群れなす大量の人々」、それがマスだ。そうした不安定な集団の成員の一人びとりはマスマンと呼ばれ、日本ではそれにも「大衆人」という訳のわからない翻訳語があてがわれた。
本来なら、マスとはあくまで「量的な存在」なのであるから、聞き慣れぬ言葉とはえ、「大量」と訳せばよく、マスマンは「大量人」としておけばよかった。
つまり、この世の大量現象に何の批判も自省も無く呑み込まれていく、と、いうより、そうなることに安穏を覚えるのが大量人なのだ、と西部氏は記している。
このくだりを喧しく音量調節機能が壊れたグループに遭遇すると何故か思い出す。グループとはひとり以外の複数人だ。


前日の強風が鎮静した昨日、朝から関東近郊の山に向かい、ホーストレッキングを楽しんだ。いわゆる外乗で、森林内の林道で森林浴を堪能し、広がる田園風景の中を進み、沢沿いの水面の乱反射を楽しみ、ログハウスでティータイムを過ごした。
ブリティッシュスタイルの馬、ウェスタンスタイルの馬、ポニーの他、犬、猫、烏骨鶏も飼育している乗馬施設だ。
乗馬スタイルには何種類か有るが代表的なのがブリティッシュスタイルとウェスタンスタイルだ。
ブリティッシュスタイルは馬と人間がハミや騎座、脚でコンタクトを取り、繊細な動きを馬に要求する。手綱は両手で持ちピンと張ることで常にハミを通してコンタクトを取る。ウェスタンスタイルはルーズレインと言い、手綱を緩く持ったまま騎座や声で馬に指示を出し、伝わらない時は脚を使う。手綱は片手で持ち、馬の主体性を重視したスタイルで、馬へのアプローチがブリティッシュスタイルとは異なる。
昨日選んだのはブリティッシュスタイルの馬だった。
午後をだいぶ過ぎた頃、都内に戻り、リンパドレナージュの施術前に軽食を摂ろうと赴いたティーラウンジで友人と遭遇し、近郊の山でホーストレッキングをした帰りだ言うと、ひとりで行くなんてまきちゃんらしいと言われ、一緒に行きたかったとも言われた。
嗚呼そうか、と、気付いた。
誰かと一緒に行こうとは全く思い付かなかった。とはえ、思い付いたとしても、やはりひとりで行っただろうとも思った。


sunday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。薄く淡い。