都合の良い単語 | かや

かや

かやです。



朝からメンバーシップになっているホテルのスパ&フィットネスで軽く泳ぎ、ごく軽くジェットバスに浸かり、ごくごく軽くサウナを巡り、階下のラウンジで根菜サラダとフルーツプレートの軽食でティータイムを過ごし、場所を移動してリンパドレナージュの施術を受け、場所を移動して、ヘアサロンでシャンプーブローし、移動して所用を二件済ませ、銀座8丁目の寿司屋で友人と合流。魯山人の器で提供される懐石コースで突出、刺身、焼物、椀、にぎり、デザートを楽しむ。

帰宅し、一段落して、ピアノの部屋で暫し過ごし、楽譜の棚からモーリツ・モシュコフスキーの15の練習曲とドメニコ・スカルラッティのソナタ集を選び、それぞ何曲かを、いつものことだがかつて師事した先生が失望するような弾き方で非常に適当に弾いて、部屋を移動し、逆立ちをしてから暫くソファーで過ごし、別な部屋に移り、書棚から無作為に引き出したのは柄谷行人氏の『マルクスその可能性の中心』だった。


何十年も前の懐かしい著書で、とても久しぶりに頁を開く。刊行は70年代終わりだが、開いたのは講談社学術文庫で1990年7月が第1刷発行だから、それにしても実に30年以上前だ。ごくごくたまに思い出したように眺めるがここ数年すっかり手に取ることもなかった。懐かしいなと思った。
他に『内容と遡行』『反文学論』『隠喩としての建築』『探究Ⅰ』『探究Ⅱ』『言葉と悲劇』『意味という病』『批評とポストモダン』などをはじめ何冊か興味深く読んだ著書が書棚にある。
文庫本は様々な出版社か刊行されているが、興味が向き、手に取るのは大概講談社学術文庫なちくま学芸文庫、或いは岩波文庫で、それらの多くが書棚には並んでいる。
ハードカヴァーだけでも何千冊だが文庫本などペーパーバックまでもをカウントしてしまったら、いったいどれくらいの冊数になるのだろう。そういえば、楽譜をいちいち数えたことも無いがそれらもかなりな量だ。
読書という意識も無く日常の隙間に何と無く手に取り眺めているうちにいつの間にか堆積している。
ただ息を吸って吐いているだけの、極力余計な体力を使わずに、ほぼ半死人の日々を心がけているが、ただ呼吸をしているだけでも付随物は増えて行く。


普段から体力を温存しきっているので、疲れたという体感を覚えたことがここ何十年無いという横着ぶりだ。
怒った記憶も無いが、へとへとに疲れた最後はいつだったかの記憶も無い。
すぐに色々忘れてしまうのでただ覚えていないだけかも知れないが、そもそも少しの無理もしないので疲れようが無い。
物心ついた時から両親から頑張れと言われたことが無い。勿論、勉強しなさいと言われたことも無い。
むしろ、そんなに頑張らなくても良いとも言われ、自分自身では頑張っている自覚が無かったので、これ以上何もしなくて良いのかと不思議に思ったし、大して勉強などしていないが、よく勉強していると褒められ、そんなに勉強しなくてもじゅうぶんすぎるくらいじゅうぶんだとも言われ、はて?と思っていたものだ。
頑張るをはじめ、努力だとか今は死語やも知れないが根性だとかの単語がとても苦手だが、頑張るだとか努力だとか、親から一度も言われたことが無かったから、余計に違和感があるのだろうと思う。
それにしても。この頑張るとか努力とかいう単語は取り敢えず発しておけば良いような随分と都合の良い単語でもある。


thursday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。適当。