救いようの無さ | かや

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南楼望

去國三巴遠
登楼萬里春
傷心江上客
不是故郷人

南楼(なんろう)の望(ぼう)

国(くに)を去(さ)って 三巴(さんぱ) 遠(とほ)し
楼(ろう)に登(のぼ)れば 万里(ばんり)の春(はる)
心(こころ)を傷(いた)ましむ 江上(こうじょう)の客(かく)
是(こ)れ故郷(こきょう)の人(ひと)ならず

盧僎(ろせん)の五言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、盧僎は初唐、中宗(ちゅうそう)の頃の詩人。聞喜尉(ぶんきい)よりはいって学士となり、吏部員外郎(りぶいんがいろう)にまで進んだ。


意。国を離れて遠い三巴の地にやって来た。楼に登れば見渡す限り春たけなわの景色だ。揚子江ほとりでひとり佇む私が目にするのは船で往来する旅人は皆異郷の人々。故郷の人は居ない(淋しさが満ちてくる)。

南楼は四川省の巴江(はこう/重慶府)のほとりにある。この楼に登って四方の眺望をほしいままにし、旅愁を感じて歌ったもの。
淡々として旅愁を訴えているが胸に強くせまるものがある。長い流浪の旅路の果ては風光明媚な蜀の地でおりしも時は春、楼上からの大観はひとしお遊子の思いをかきたてたことだろう。万里春は佳句であり、転句にいたって、焦点を去来する旅人にしぼって、それもまた我が故郷の人ではない、嗚呼せめて故郷の人になりと会いたいものと、実にやるせない孤愁を訴えている。旅愁の作中の逸品と解説にある。
二十字に描かれた情景に旅愁が浮き彫りになり沁み渡るような美しさをも感じる詩だ。


昨日、朝からメンバーシップになっているホテルのスパ&フィットネスで軽くプールで過ごし、ごくごく軽く三つのサウナで過ごし、場所を移動し、ヘアサロンでシャンプーブローし、移動し、表参道の鉄板焼きの店で友人と合流し、昼のひとときを過ごす。ラウンジ一面の窓の向こう一望出来る街並と眼下にけやき並木の広がる空中庭園が居心地の良い店だ。友人と解散し、移動し紀尾井町で打ち合わせ、移動し恵比寿で所用後、コールドプレスジュースの店で二種ジュースを選び、帰宅。

プールも鉄板焼きの店も紀尾井町での打ち合わせも四十六階、五階、二十三階とそれぞれ高低はあれど建物からは街を見下ろすような視界ばかりだった。
その眺望を見下ろす感じに、長い流浪の旅路の果てに辿り着いた地でひとしお遊子の思いをかきたて、孤愁を詩に描いた盧僎の五言絶句を思い出していた。
ガラス越しに見る街は日常の行動半径の見慣れた景色なのだが不思議な隔絶感がある。
移動の車窓に流れていく街もまた見慣れているが何処か隔たりを覚える。何処に居ても其処が居場所では無いという感覚は殊の外心地良い。
盧僎の詩は並々ならぬ愁いを込めているが、あらゆる全てから遠く疎外された感覚は決して悪いものでは無く、むしろ私はそのような感覚を敢えて好むし、何の繋がりも無く孤立していくことすらその小気味良さは格別に感じる。
微動だにしない静かな時間が其処にはある。
盧僎は淡々と乾いた描写で旅愁を情景に織り込めているがどこかその愁いに浸る心地良さをその詩から掬い取ってしまうのは、常々転がっている石になりたいとか堤防や船体に張り付くフジツボになりたいとか薄暗く湿った場所にはえる苔になりたいとか思っているからだろうか。向き不向きで言えば、明らかに人間には不向きなので、その辺りを浮遊している埃でも良いし、埃で無くとも良いし、むしろ何にもなりたくない。というより。そもそも何にも不向きだろう。その救いようの無さが嬉しくもある。


saturday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。稀薄なまま。