いつでも傍らには | かや

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かやです。



北西の風が間断無く吹き荒れた一日だった。
とはいえ、体感はほぼ無いまま、何と無く車窓を隔てた街に時折舞い上がる砂塵を見たり、所用で立ち寄った先々で「今日は風が強いですね」と皆が言っていたから「そうですね」と返事をしたが他人事だった。
午前中はリンパドレナージュの施術を受けて、早めの昼を和食の店で刺身盛り合わせや煮魚などでひとときを過ごし、ヘアサロンでシャンプーブローし、二つほど所用を済ませ、それだけで夕刻となる。
近距離の移動はこま切れに短かかったが、車中ではとても久しぶりに鈴木修次氏の『漢語と日本人』を眺めた。この単行本は四十数年前の初版だからずいぶんと古い。
購入した当時は飽かず眺めていたが近年は頁を捲ることをしていなかった。
朝、出掛けに書籍の部屋で適当に棚から引き抜いたのが鈴木氏の古い古い単行本だった。
懐かしいなと思いつつ、短い移動の間、頁を捲り、この書籍と同時期に購入した『中国文学と日本文学』という鈴木氏の著書をやはり当初興味を持って眺めていたことを思い出し、帰宅したら、そちらも久しぶりに眺めたいなという思いが沸き上がった。


夕刻、最後の用事を済ませた後、コールドプレスジュースの店に寄り、二つほどジュースを選び、帰宅する。
留守番の人から昼間届いた宅急便や郵便物を受け取り、それらを適当に処理して、一段落すると、留守番の人が点てた抹茶と練り切りを運んでくれた。
「丸久小山園の天授です」留守番の人は言った。小山園の抹茶は久しぶりだ。
「ありがとうございます、この練り菓子は?」と尋ねると留守番の人は少し笑顔を浮かべ「お口に合うかどうか」と言った。
以前やはり点てた抹茶と共に出してくれた練り切りも留守番の人の手製だった。京都の和菓子店の美しい練り切りと変わらない季節を模した端正な練り切りだった。
見映え美しく、そして美味しいものをさりげなく作り、これ以上合うものは無いくらい適した器に出してくれる。
美しい見映えと味は必ず一致している。
見た目は雑でキタナイが味はサイコーと言われてもまず食指は動かない。
雑というだけで、全て萎えるし、雑は雑なりでしか無い。


夜、昼間眺めていた鈴木修次氏の著書を更にゆっくりと頁を捲り、同じ年に発刊された著書を眺め、気付けば日を跨ぐ寸前だった。
普段から何年もテレビは見ていないしネット上に氾濫する様々な情報の類いも全く興味が無いので閲覧していない。
今、地球で何が起きているのかというざっくりとした情勢はネットとかでは無く、周囲の友人知人から少なくとも公に流布されている事柄よりは確度の高い諸々を得てほんの僅かに把握してはいるが、それだけのことで、したり顔で他に向けて述べたてることもしない。
普段、いちばん費やす時間が多いのは書籍の類だろう。
いまだに紙の書籍ばかりを手に取って開いているし、購入も紙の書籍ばかりだ。電子書籍はどうしても好きになれない。外出時も必ず何かしらの本を携帯して、僅かな移動も頁を開く。どの頁からでも一瞬で没頭出来るのは既に何度か読んでいるからだ。
頁を開き、文字を追っていると時間はいつの間にか驚くくらい過ぎている。
日を跨ぐ寸前に漸く本を閉じた。何十年も前の本は全体が少しだけ褪せている。

帰宅したら読もうと思った『中国文学と日本文学』1978年初版のハードカヴァーで、昨夜、ひとときは静かに過ぎた。いつでも傍らには本が居る。


tuesday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。淡い。