スカスカ | かや

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かやです。



春の訪れと共に陽光が強く明るくなり、晴れ渡る青空のもとに穏やかに吹き渡る穏やかな風はまばゆい感じがあり、万物を生きかえらせる。
草木は芽を噴き、動物は活発に活動を始める。
春風とも違い、始まったばかりの春の晴れた日の風の感じを呼ぶ言葉に「風光る」がある。
他に「光風」「風まぶし」或いは「風かがやく」なども同じで、俳諧では春の季題だ。
春の麗らかな微風を受けて万物が瞬時の輝きを見せるさまを見事に表している。
そして、如何にも気持ちが浮き立つような軽やかさがある。
季節の微妙な動きを巧みに捉えて造語したところに歌ことばとしての特徴があるが、上代から江戸時代までの和歌には全く登場せず、この「風光る」は江戸時代の俳諧の中に用いたのが最初であり中国詩語の影響と見るべきだろうと『古今歌ことば辞典』には記されている。


江戸時代とは案外に新しい表現であるが、中国詩に六朝期の徐陵編『玉台新詠』に「風光遅舞(ちぶ)青蘋(せいひん)を出づ、蘭條の翠鳥(すいちょう)発春に鳴く」(巻九、雑詩七首、燕歌行)がある。
春の微風が光る頃、青い蘋(よもぎ)が少しづつ萌え出したと歌った詩だ。
他にもこの表現は中国詩に見ることが出来、「風光る」は中国詩語から引いた言葉だろうことは明らかだが、江戸時代、日本の漢詩は大きく花開き、多様に広がりを見せたことを鑑みると当然でもあり、むしろ江戸時代から使われるようになったのは遅いくらいで、そのように漢語を引いた表現は古くから相当数ある。


風は不思議だ。
様々な表情をその時その時に見せてくれるがまるで実体はとらえどころが無い。どこから吹いて来るのか、そしてどこに向かって行くのかさえ漠然としている。
ただ、風に包まれ浚われる瞬間に体感として捉えはするが、次の瞬間には消滅し、新たな風に包まれ、そして浚われる。どこから湧き起こるのかを考えることなど無いし、その行方を追うことも無い。
吹かれている刹那だけ風を体感している。

風と呼ぶその実体を実はまるで捉えきれていないが、そのような捉えきれていないものはたくさん有る。
たくさんと言うより、全て、捉えきれてなどいない。
言葉として存在している全てがまるで脱け殻のようだ。その瞬間実感として捉えはしたとしても、それが永遠には続かない。
永遠などという実体の無い不確かな言葉をあまりにも安易に使ってしまったが、言葉は実に当てにならないし、言葉自体には何も無い。
馬鹿馬鹿しいくらいに空疎だ。
そのスカスカな虚しさはむしろ小気味良い。
言葉に囚われているとなにか大事なことを見落として行く。少なくとも自然界からは無縁と呼ぶに等しいくらいに遠ざかる。
大きな大きな網の目の篩にかけて、どうでも良いようなカスだけがザルに残る。
それが言葉のように感じてならない。
あまりにも安易に、そして不用意に使い続けている言葉に横着にも胡座をかいて、ほぼ大方見落としている。
見落としたまま、それらしい言葉に表すほどラクなことは無い。それらしければ良いと言う杜撰さが全ての言葉の基本でもある。


monday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。ほどほど。