視覚的には春かも知れないが | かや

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もともとは桜の咲く頃の狩りのことだったのだろう。
しかし、鳥獣の狩りは冬季が多く、花だけを求めて出かけることを「桜狩り」と呼ぶようになった。
謡曲『西行桜』に「頃待ち得たる桜狩り/山路(やまぢ)の春に急がん」がある。小倉山の西行庵の花見に行こうというところであり、鷹狩りなどでは無い。

『古今歌ことば辞典』によれば、古来、桜狩り、紅葉狩りなどと「狩り」を表記していたが、「刈り」と混同し、草木の採集の意味となり、潮干狩りともなる。
しかし、「妹(いも)がり(妻の所)」などと、音(おん)が共通なので、花のもとに(行く)と、桜を擬人化して親しんでいたようでもある。と説明されている。
「また見ん交野(かたの)のみ野の桜狩花の雪散る春のあけぼの」(『新古今集』春下)は、こんなに美しい景は二度と見られまいという、藤原俊成が八十二歳の時に詠んだ歌だ。花と一夜を明かす風雅な花見だ。
因みに「交野」は皇室の狩猟地で、春の落花を、狩りをする冬の雪と連想し、「花の雪散る」と、古い伝統を生かした歌だ。


俳諧で「花見」「桜狩」はこの時期の季題だ。「梅見」があるから「桜見」があっても良いが、その句例は古来殆んど無いようだ。「桜狩」は語感としては古風に感じるのは現在あまりにも「花見」が浸透しているからだろうが美しい言葉であることに違いは無い。

花見。と言えば、所謂、桜の下で群れて飲食するような花見は人生で一度も体験していない。
正確には一度だけ、そのような場に顔を出したことがあるが、顔を見せただけで、ものの数分もその場に居なかった。身を置きたくない場はいつでもすぐに去る。
今から三十七、八年前のことだ。
場所は青山墓地だった。あとにも先にもその時だけだがほぼ一瞬でその場に居たくない一択となったので、実際には飲食もせず、場をあとにしたのでそれをカウントして良いのかどうかは微妙だ。
もともと住まいには桜が何本か有るので満開の桜は極めて身近に有り、敢えて赴いて愛でるという感覚は元来全く備わっていない。

また、桜の開花時期は、はからずも此処彼処で桜に遭遇する。冬の間には気付かなかった様々な場所に桜は花を開花させて、ある日忽然と幽玄な姿をあらわにする。
嗚呼、此処に桜が有ったのかと気付かされる。
開花している時だけ、ひときわその存在が際立つのが桜だろう。
日常生活のささやかな行動半径には実にたくさんの桜が点在している。或いは所用で郊外に赴いて、遠目に山の中腹に白く綴れ連なる桜も美しいし、そのように何気無い瞬間に桜は探さなくとも視界に入る。
移動の車からふと視線を窓の外に向けた時に見かけるだけでも十分過ぎるくらいに十分だ。


桜は菓子や飲み物などにこの時期はそのイメージが桜風味となり桜色となり用いられる。桜風味はほぼ香料によるもので、桜の葉で包んだ桜餅などは別として、それでさえ香料が添加されているだろう。春の桜の時期の様々なメニューの桜風味の悉くが苦手だ。
昨日ヘアサロンでシャンプーをしている時にスタイリストが「あの桜風味が苦手なんです」と言い、それに大いに同意した。人工的な味と匂いは好き嫌いが分かれるところだろう。

秋、いちばん最初に落葉が始まるのが桜だ。
少なくとも住まいの庭は落葉の始まりは桜だ。葉は色付いて枝を飾り、乾燥して剥がれ舞い落ち、地面を鮮やかに彩る。
その落ち葉が地面を覆い、雨が降ると、落ち葉が湿って、葉自体の匂いを発散させる。桜餅とか桜風の匂い付けをしたものの匂いなのだ。同じような匂いでありながら、地面を彩り覆う濡れた落ち葉は、殊の外、心地良い自然の芳香を放つ。
その桜の落ち葉が濡れて放つ匂いで秋を感じる。
濡れた落ち葉の匂いが秋の風物として、桜の存在を強く感じる瞬間でもある。
春、万朶に咲き乱れた桜を視覚が実感するのと同じように、秋、地面を覆い、雨にしっとりと濡れて匂いを発散する桜の落ち葉に、季節のうつろいを嗅覚が実感する。桜と言えば視覚的には春かも知れないが、嗅覚に強く訴えかけてくれるのが秋だ。


Sunday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。平坦。