紙一重 | かや

かや

かやです。



物事をはじめ、身近な事象、或いは遠く離れた全く関連の無い悉く、果ては森羅万象に至るまで、感情移入はある程度有って当然の意識の投影だろうが、過多になるとそれはかなり身勝手な思惟の押し付けになっていたりする。
芸術作品や自然の物象に自身の感情や精神を投射して、その対象に対して共感し、融合する意識作用を一般に感情移入といい、また美的享受の特質の一面としても理解されている。

ほどほどな感情移入ならば、やれやれ周囲が全く見えていないなで済むが、あまりどっぷり感情をのめり込ませると、相当、自己中心的な思考の持ち主だと思わざるを得ない。
何かに対して深く同情的になるのはそのポイントは異なれど、誰しもが抱く感情だが、闇雲に自身の勝手な論理から感情移入し過ぎてしまえば、当然それは自分本位で自分勝手、利己的、つまりはエゴイスティックな押し付けになる。
無論、当人は押し付けているなど微塵も思っていないし、むしろ、移入した感情にうっとりしていたりするが、えてして感情移入そのものが極めて個人的な偏向した屁理屈が造り上げた意識作用だったりする。


はからずも何かに対して同情的になるのは誰しも抱く感情と記したが、憐れみを持って痛みを分かち合い、思い遣り、慰めるという具合に主に悲しみや苦しみに対して抱く同情という感情も、客観視しないまま一方的な視点で捉えてしまうと別な観点を見落としてしまうし、同情もまた個人的な感受から発露する意識作用だから、度が過ぎれば自我の押し付けになりかねない。
他者の考えや喜怒哀楽から発露する感情に同感する共感もまた一見客観的な視点で判断しているようでいて、やはり個人的な視点が大きく作用している。
いづれにしても人の発露する感情は百人百様で同じでない。同じ傾向であっても元々の根底自体は異なっているし、なんにしても、何らかの事象全般に対して感情的に擦り合わせ過ぎること自体、無理があるし、亀裂を造り出すことになる。


その人の気持ちに寄り添って行動するという言い方があるが、深刻な状況であればあるほど実際にはなかなか難しいように感じる。
なんでもかんでも訳知り顔で接するのは失礼千万だし、特に痛みや悲しみに対してはかなりデリケートな感性が必要となる。捉えどころを間違えれば、更に相手を傷付けることにもなりかねない。
ほんの僅かにも心というものがあるならば、私の場合はこーだったあーだったと深刻の度合いを引き合いに出すのは相当見当違いであることに気付くだろうし、相手の感情に土足で踏みにじることになりかねないが、想像力の著しく欠如した人はおしなべてその辺りを度外視して、自ら発露する感情を過度に擦り合わせる。
ただ自己満足するだけの為に更に相手の心を抉る。
あまりに安易に事象に感情を投射し過ぎれば、ただの無責任なその場の言動にしか見えない。

なんでもかんでもに対して言う「うわあ超可愛い~」と痛み入る気持ちでいっぱいですは時として紙一重に感じる。


saturday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦。