京都でのひとときは遥か彼方 | かや

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邙山

北邙山上列墳塋
萬古千秋對洛城
城中日夕歌鐘起
山上惟聞松柏聲

邙山(ぼうざん)

北邙(ほくぼう) 山上(さんじょう) 墳塋(ふんえい)を列(れっ)す
万古(ばんこ) 千秋(せんしゅう) 洛城(らくじょう)に対(たい)す
城中(じょうちゅう) 日夕(にっせき) 歌鐘(かしょう)起(お)こる
山上(さんじょう) 惟(た)だ聞(き)く 松柏(しょうはく)の声(こえ)

沈佺期(しんせんき)の七言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、沈佺期は656年?―714年?。唐の相州内黄(だいこう)の人。字は雲卿(うんけい)。則天武后の時に修文館直学士となる。開元の始めに没す。すぐれて美しい文句をつくる才能にめぐまれ、宋之間と名をひとしくし、沈宋(しんそう)と称せられた。わけても七律に長じ、詩風は清麗。

意。北邙山の上には墓が多く並んでいて、千年も万年もの昔から、いつも変わらず洛陽城に対している。さてその洛陽城中では、日夜歌いつ舞つ大騒ぎをしているが、この山上では、ただ松柏が風に吹かれている音が聞こえるだけだ。

人間の富貴栄華のたのむべからざるを風刺したもので、承句の「対洛城」をうけて転句で「城中日夕」と城の字を畳陽しているところがおもしろい。劉廷芝(りゅうていし)の「公子行」「百年同じく謝せん西山の日、千秋万古北邙の塵」と同意と解説されている。また墳墓が多く京都の鳥部山のような所とも記されている。


鳥部山は中世以降の京都の東にあった葬送地鳥部野の異称で、地理的な範囲は明確ではない。平安時代以来の墓所として、北の蓮台野、西の化野とともに京都の三大墳墓地をなしている。北辺の鳥辺野は庶民の墳墓が多く、南は皇族、貴族の墳墓地が多いのが特徴で、藤原道長をはじめ、藤原一族の火葬の地でもあり、また親鸞の荼毘所もこの地域にある。現在の鳥部野は主として慶長以降の墓地で、特に江戸時代の儒学者の墓が多い。
江戸時代に大きく花開いた日本漢詩を鑑みるとこの地に墓を設えた儒学者が多いのはなんとなく納得する。

鳥部野(鳥部山)は葬送地の舞台として男女の心中を描いた多くの演劇・文芸作品が創作されている。それを用いた歌や三味線は鳥部山物(とりべやまもの)と呼ばれている。
そのような創作の中、鳥部山といえば岡本綺堂の「鳥部山心中」を想起する。
徳川との対決を避けようとする豊臣の忠臣片桐且元の苦心を描いた坪内逍遙の「桐一葉(きりひとは)」、旗本菊池半九郎と祇園の遊女お染の恋の末路をうたった綺堂の「鳥部山心中」そして同じく綺堂の面造り夜叉王の執念を描いた「修禅寺物語」は明治以降の新歌舞伎の代表三部作だ。


昨日、京都の友人と合流し、友人が予約を入れてくれていた店で昼のひとときを過ごす。
店は京都御池通りから少し入ったところにある静かな佇まいで、暖簾を潜れば、外界から隔離されたような空気に変わり、石畳の先にエントランスがある。
2ヶ月ぶりの友人と京料理のおまかせでゆったりとした時間を過ごし、帰路東京に向かうのぞみで、ふと沈佺期の七言絶句や鳥部山や綺堂の作品などがバラバラに浮かんだ。
京都で食事している時に思い出していれば、実報寺や親鸞の荼毘所を回っただろうが、友人と共通の先日他界した音楽の師の話題や頻々と海外出張していた頃、色々なオペラを堪能したが、友人もまた海外での仕事が多く、タイミングが奇跡的に合い、友人とミラノスカラ座で観劇したオペラがプッチーニの「トゥーランドット」だったか「蝶々夫人」だったか、ややもするとスカラ座では無く、ローマコンスタンツィ劇場で「サロメ」だったかも知れないとか、記憶がごちゃごちゃになっていて、パリオペラ座だったような気がするとか、しまいには一緒には観ていなくて互いに違う人と行ったかも知れないとふざけた会話になり、私も友人も思い出せないまま、話題は他に移った。楽しいひとときだった。
東京に戻ってから、住まいに向かう車で、友人と観劇したのはウィーン国立歌劇場でモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だったことを思い出した。
友人にメッセージを入れようとスマホを見ると、友人も思い出したのだろう、メッセージが入っていた。
互いに全く忘れていたが、オーストリアで合流していたことを友人も私も思い出していた。

確か棚にはヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の「ドン・ジョヴァンニ」が有った筈だ。
帰宅したら、久しぶりにモーツァルトで過ごそうと思ったが、帰宅した頃にはすっかり歌劇のことは忘れて、サン=サーンス、ブラームス、ベルク、パガニーニ、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ショスターコヴィチ、シベリウス、ブルッフ、ベートーヴェン等々、ヴァイオリン協奏曲の並ぶ棚から、ブルッフ、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチを選んで夜のひとときを過ごした。
既に京都でのひとときは遥か彼方、同じ日の出来事とは思えないくらい遠ざかっていた。


friday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。淡い。