ふたつの〝作品〟 | かや

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三日尋李九荘

雨歇楊林東渡頭
永和三日盪輕舟
故人家在桃花岸
直到門前渓水流

三日(さんじつ) 李九(りきゅう)の荘(そう)を尋(たづ)ぬ

雨(あめ)は歇(や)む 楊林(ようりん) 東渡(とうと)の頭(ほとり)
永和(えいわ) 三日(さんじつ) 軽舟(けいしゅう)を盪(うご)かす
故人(こじん)の家(いへ)は 桃花(とうか)の岸(きし)に在(あ)り
直(ただ)ちに 門前(もんぜん) 渓水(けいすい)の流(なが)れに到(いた)る

常建(じょうけん)の七言絶句。山田勝美氏『中国名詩鑑賞辞典』によれば、常建は盛唐の詩人。長安の人。開元十三年の進士。一時仕えたが、意にまかせず、ついに琴酒に放浪した。風景詩にすぐれ、晋の謝朓(しゃちょう)の詩に似て、清麗鮮明の作がおおい。

意。夜来の雨もあがって、東方の渡し場付近の柳の林も緑がひときわ鮮やかである。(きょうは)王羲之の永和年間の蘭亭の遊びも思い出される三月三日の上巳の節句にあたるので、(李九の別荘を尋ねようとして)軽舟を漕ぎ出した。来てみると、わが友の家は、桃の花の真っ赤に咲いている岸の上にあるので、真っ直ぐに渓流に乗り入れて、門前に舟をつけた。


ここのところ、やたらとフラワーショップで桃の蕾を付けた枝と菜の花が早々と並んでいるのは、桃の節句が近いからだろう。
三月三日と言えば、まず最初に想起するのは常建の「三日尋李九荘」詩にもある永和九年三月三日、時の名士四十一人を会稽山陰(かいけいさんいん)の蘭亭で会して、修禊(しゅうけい/みそぎ)の遊びをし、この時の様子を記した「蘭亭集序」文だ。これは「古文真宝後集(こぶんしんぽうこうしゅう)」にある。
主催者として王羲之は自らの手でその時の感懐を文に綴り、詩集の序文として一気呵成に認めた。
これが不朽の名作として名高いかの『蘭亭序』だ。
王羲之のことも『蘭亭序』のことも今まで何度も何度もしつこく書いているのでこれ以上は書かないが、三月三日で、もうひとつ思い出すことがある。

今は亡き大好きな作家中上健次氏の異父兄が三月三日に縊死している。この兄のことは「眠りの日々」や「鴉」に描かれている。
中上健次氏と言えば、学生時代ハタチの頃、中上健次氏の書生になりたいと周囲に吹聴していたが本気のほどは我ながら定かではない。
いちばん最初に読んだ「蛇淫」は中学生の時だったが、以来、中上氏の作品に没頭した。
中上氏が愛読していたというルイ=フェルディナン・セリーヌの「なしくずしの死」や「夜の果てへの旅」やジャン・ジュネの「泥棒日記」や「花のノートルダム」など氏を真似て読んだものだ。


中上氏の作品とモチーフ、労働、犯罪をめぐる考察、現代文学や思想などを語った『鳥のように獣のように』という初のエッセイ集の中に「善光寺」という短編が収録されている。昭和五十三年の初版で購入している。
主人公の既に死んでいる兄を名乗る聾唖者との不思議な共棲を描いたもので、主人公の兄は既に死んでいるという設定はそのまま氏のことだが、憎々しげに乱暴に扱いながら、兄でもなんでもない赤の他人の聾唖者を連れて長野駅に降り立ち、喫茶店に入る。
そこでの会話の一部を抜粋すると。
「いまさら、兄だ、と言える筋合いか。いったいなにをやったか、貴様覚えているか。おまえは、生きている時、酒のむたびに、何度も何度も、包丁や斧やナタを持って、母や、まだ子供のおれを殺してやる、と暴れたのだ」
「おまえが首をつったのは、三月三日の朝さ。おひな様の日、女の節句の日さ。おまえは、自分の三人の妹、おれから言えば三人の姉に、呪いをかけたようなものだ。たしかに、おまえの呪いにみんなかかったよ。おまえだけ一人、良い子になったよ」台詞はまだまだ続く。
「兄ちゃんみたいに死にたいよおと走ってくる汽車に飛び込もうとした姉は三人の子供が居る。カミソリで手首を切ろうともした」
「それをみるつらさは、わかるまい。地獄に堕ちろ、地獄に」主人公は言う。

聾唖者はただ「あっあああ」と言うだけだ。
「善光寺になあ、母と姉たちを連れてきてやりたかったよ」
不覚にも、涙が出た。だが、なんと、熊野からここまでは遠いのだろう。

短編はここで終わるが、中上氏の故郷は熊野だ。
〈おまえが首をつったのは、三月三日の朝さ。〉という台詞と〈不覚にも、涙が出た。だが、なんと、熊野からここまでは遠いのだろう。〉最後の記述が印象に残る短編だ。

蘭亭雅会と王羲之の神助の序文、そして作家中上健次氏が若い時に執筆した短編小説「善光寺」、四十年以上前から三月三日といえば、このふたつの〝作品〟を必ず想起する。


thursday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。平坦。