code blue | かや

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かやです。



昨日、普段全く縁の無い町に所用があり、普段全く通ることの無い道を車は進んだ。見慣れない景色を眺めるのは楽しい。生活圏内から少し外れるだけで、全く未知の町や景色に溢れている。
そぼ降る雨の中を車はゆっくりと進む。道路標識の地名も知ってはいるが日常に関連していないので、字面すらも他人行儀で旅に出ているような錯覚に陥る。地方でも何でもない、東京二十三区だが。

ふと何処かで見たような建物が視界に入った。建物は屋上部分には一文字一文字が正方形の枠に示されて、遠くからも病院だとすぐに分かる。
その病院のすぐ前を通った瞬間、記憶が繋がった。
そこは何年も前、父が運ばれ、少しの時間、滞在した病院だった。
父が他界する前年、夕方、父と中華料理の店で食事をしていた。
運ばれた料理を食べ始め、少ししたところで、父の様子がおかしくなり、意識が無くなった。
しばしば立ち寄る店だったのですぐに店主が救急車を呼んだ。
程なく救急車は到着し、車内に運ばれる。
隊員に三つの既往症とその三つの診察を循環器内科、脳神経外科、泌尿器科で受けている大学病院名を言う。
車内で救急隊員が血圧や心拍数、酸素濃度など測定する間、父の服用している約十種類の薬の名前と毎日計測している普段の血圧、心拍数を救急隊員に伝える。
その状態から、父が診察を受けている大学病院に運ぶのがベストだったが、その病院に運ぶまでに容態が一変する可能性があることから、その大学病院より距離の近いICUのある総合病院に搬送することとなった。
そして「ご家族に知らせた方が良いかも知れません」と隊員は言った。

病院に到着すると入り口に待機した病院のスタッフが手早く父は処置室に運ばれ、すぐにレントゲンや諸々の検査が行なわた。
検査の結果を見ながら医師からの幾つかの質問と意識を失った直前の様子や3つの既往症や治療状態、服用している全ての薬の名前など、先ほど救急車内でも答えたことを再度述べる。
看護師が血圧や酸素濃度を計るがだいぶ安定していた。その時点で父の意識は回復していた。
と。その時。
館内放送で「コードブルー、コードブルー、西館◯◯へ」と抑揚の無い音声が繰り返し流れ、その途端、医師が突然唐突に処置室を出て行った。
看護師も少しお待ち下さいと言い残し、出て行った。
廊下を見ると他の白衣の医師や看護師も同じ方向に小走りに向かっている。館内放送の西館◯◯へ、の◯◯へ向かっているのだろう。


コードブルーとは、患者の容態急変などの緊急事態が発生した場合に用いられる救急コールのことだ。コードネームで知らせることにより、病院内の一般人が混乱しないようにしている。このコードブルーが全館放送でコールされた場合は担当に関わらず、手の開いている医師や看護師に至急集合して貰いたい場合で、コードブルーの他にスタットコールとかドクターコールと呼ばれることがある。
この緊急事態発生、召集コールが有ることは知っていたが、実際にその場に居合わせたことは無かった。
病院に運ぶまでに容態急変する可能性があるから家族にも知らせた方が良いとまで言われ、中華料理の店からいちばん近いICUのある総合病院に運ばれたが、コードブルーコードブルーのコールと共に処置室は私と固い処置台に寝かされた父だけとなった。
「パパ。大丈夫だよ。パパを放ってお医者さんも看護師さんもみんな出て行っちゃったから」と父にコードブルーのことを言った。つまり父は放って置いても心配無いということだ。
結局、その後戻って来た医師が「現況正常値に回復していますが念のために治療を受けている大学病院にこのまま行ってください」医師は父の通う大学病院の父の担当医師に連絡をしてくれていた。
父を運んでくれた救急車が待機していた。
救急搬送した救急車は搬送した人間が、入院とか治療とか結果が出るまでは静かに待機している。
その救急車で、父は三つの科に定期的な診察を受けている大学病院に運ばれ、再び、救急受付入り口で待機している医師と看護師に迎えられて、処置室で先ほどの病院同様に一通り検査をし、前日が診察日だった父はその時も病状は悪化していないがギリギリ横ばいで、この横ばいを保てるようにしましょうと言われたばかりだったが、その担当医師が運良く居て、入院も視野に入れての診断だったが帰宅した。


救急車には何度か乗ったことがある。
私自身もあるし、父の同行者として出先での救急搬送の他に住まいからの搬送も有ったし、叔母の救急搬送も同行した。
住まいに居て何か起きた際、救急車を呼ぶべきか否かの判断は難しい。
それを相談する電話相談窓口サービスが有る。そこにまず現況の血圧や心拍数と状態と共に既往症と治療内容と服用している薬を述べる。かなり的確に判断してくれるので「迷わず救急車を呼んでください」と促され、即座に連絡したりする。同行する際はくすり手帳を必ず持参する。
出先からの急な搬送でくすり手帳が無くとも口頭で伝えることによって、服薬状況から様々な情報を医師は読み取る。

昨日思いがけず、父が搬送された知らない町の病院の前を通過して、何年も前のことを思い出した。あの搬送から程なく、秋に父は三つの既往症とは関係無いまさかの胃ガンが発覚し、しかもステージⅣリンパ節転移で年内持たないかも知れないと言われた。三つの既往症は各々がもともとわりと深刻で、横ばい状態で居ることを目標にしていたし、定期的な検査や診察を頻繁に受け、生命に関わる事態はその三つのいづれかが突如牙を剥く時だと観念していたが、ほぼ症状が無かった思いがけない伏兵が居た。年内持たないと言われつつも年を越したが二月に他界した。
父の死後、去年の今日は父は生きていたと思って日々を過ごし、一年目の父の命日に今日の今頃はまだ生きていたと記憶を繋いだが、まだ生きていた時間が過ぎて、去年の今日はもう死んでしまっているという父の死後の二年目が始まった時はとても淋しいなと思った。
既に間違い無く父は死んでいるし、何年もの間にその悲しみも段階を経ているし、事実だけが淡々と残っているが、記憶を想起した瞬間、その記憶にはまだ父と自分が共に居る。
今は居ないが記憶には共に父が居る。
記憶は優しい。


saturday morning白湯を飲みつつ、まだ明けない空を眺める。

本日も。特に何も無く。