発露した気持ち | かや

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今に始まったことでは無く昔も昔、子どもの頃からだが諦めが早い。
何らかの自分の願い事が何らかの事由で叶わず、その願い事に対する思いを断ち切るという意味で一般に使われているのが、諦めるという単語だろう。
とはいえ諦観(ていかん)、諦聴(ていちょう)などの熟語はつまびらかに観る、聴くという意味で、仏教語源で仏教では諦観はたいかんと読み、諦聴はたいちょうと読むが、この「諦」は本来つまびらかにする、明らかにするという意味だ。
漢語の「諦」は梵語のsatya(サトヤ)への訳語であり、真理、道理を意味する。
従って、物事の道理を弁えることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念するという思考のプロセスが「諦める」という状態には見出だすことになる。
そのような過程も無く、理由などいちいち明白にせず、何も顧みず平気ですぐに諦める。
気持ちを切り替えると言えば聞こえが良いが、すぐに何でも手放し過ぎて、しばしば子ども頃は親以外の大人たちからは呆れられたが、それから何十年、変わらずに諦めが早いままだ。


幸いにも両親は色々押し付けたり無理強いをすることが一切無く、むしろ逆に頑張らなくて良いという感じだった。
勉強しなさい、頑張りなさい、と父からも母からも一度も言われたことが無かったので、度を過ぎて勉強したことは一度も無かったし、勿論頑張ることも一度も無いまま齢六十を過ぎてしまった。
死ぬ気で頑張るとか踏ん張るとか、いっぱいいっぱいになるまで自身の気持ちを押し殺し無理強いするとか。
まず無い。
発露した気持ちに忠実に行動した結果、それがはたから見れば頑張っていたことは少なくないし多々あるかも知れないが、それだけのことだ。
何かを諦める時も全く同様で、あ、もういいかな、とか、まあいいや、と思う次の瞬間、気持ちは彼方に離れて行く。諦めるというほどの意識も稀薄だ。発露した気持ちに忠実に居ることは余計な思考の残骸に振り回されることはまず無い。


頑張るだの踏ん張るだの濁音の言葉はそれだけで萎えるが、そのように意識を持って行き、その意識をキープして何か行動なり作業なりを続ける時、それが本当に自分自身が望むことならば、何らストレスは無いが、大概、頑張る先に有るのは、自分以外の何かや誰かに対してだったりする。
◯◯してあげなければというような、一見、立派な動機に表裏するのは、単に自己保身だ。
悪く思われたくない、翻って感謝される良い人で居たいというような姑息な思惑は、ただ単に評価が最終着地となっているだけだ。
そのような場合は「◯◯してあげたのに」とこれまた姑息な思惑が丸分かりの不満を述べる。
また、世の為人の為という大義名分を声高に唱えてしまうのはあまり詐欺的だし実際詐欺まがいなことは多いし、詐欺師の常套句だ。詐欺を隠すいちばんの常套句は世の為人の為の善行と他者への還元と全面に謳うことだろう。
世の為人の為が悪い訳では無いが、一個人、自身が立つ足元すら危うかったり気持ちが安定していなければ、世の為人の為に辿り着く以前に破綻する。
精神衛生上何一つ良いことは無い。無理の根源を世の為人の為の世や人に向け、逆恨みすらしてしまうことになる。善行とおぼしきことや勝手に責務だからと決め付けて鼓舞して無理を重ねても、それ自体、既に自然に発露した気持ちからは乖離しているのだから、重ねれば重ねるほど、芽生えた不満は増幅する。相手には微塵も責任は無い。
勝手に無理をしていることが問題だ。
無理の根底にある自己保身が有る限り、無理をせざるを得なくなる。とかなんとか。頑張りもせず勿論踏ん張りもせず無理などせず、発露した気持ちに忠実に行動し続けて、気付けば平均寿命が三十代とも四十代とも言われている江戸時代なら息を吸って吐いているだけでも十分な域に年齢は達している。円く大きな月が視力のせいだけで無く実際に朧な夜。月はぼやけて滲んでいるがとても美しい。息を吸って吐いている自分に苦笑する。


sunday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦なまま。



 昔、居た大好きだった雄猫ジェンキンスさんにそっくり。