要約すれば二行か三行 | かや

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非常におそれていること、おののく、ふるえる、それぞれを繰り返して意味を強めた四字漢語が「戦々兢々(せんせんきょうきょう)」だ。現代表記では、兢(ふるえる)は、恐(おそれる)を用いて戦々恐々とも書く。言葉としてはよく使われるが案外字は間違え易い。「兢」は「競走」などの「競」とは違う。

由来は『詩経』だ。
西周は衰亡の一途をたどる。幽王は煩わしい政治を避けて、美女褒姒(ほうじ)の愛に溺れる。側近の謀臣(ぼうしん)たちが古法(こほう)を無視した政治を行なう。天子と諸侯との対立関係が尖鋭化する。そのような時代に反撥して幽王を謗る歌の一節だ。いわば政治を批判した記述ということだろう。

以下、『詩経』小雅(しょうが)、小旻(しょうびん)より。

敢えて暴虎(ぼうこ)せず
敢えて馮河(ひょうが)せず
人その一(いつ)を知って
その他を知る莫(な)し
戦々兢々
深淵に臨(のぞ)むが如く
薄氷を覆(ふ)むが如し

意。虎を手打ちにしたり、黄河を徒(かち)で渡る者はない。人はその一つを知って、その他のことは知らぬ存ぜぬ。まったく戦々兢々として、深い淵に臨むかのよう。薄い氷を踏むかのよう。

この詩はたった一節は「故事」だらけだと色々な解説には必ず触れて記しされている。『暴虎馮河(ぼうこひょうが)』、「虎を手どりにしようとしたり、黄河を歩いて渡ろうとする」のは確かに「向こう見ず」「無鉄砲」だ。『深淵に臨む』は「吸い込まれそうな深い淵に立つ」、『薄氷を踏む』は「いつ破れて冷たい水中に落ち込むか分からない」、いずれも「非常な危険にさらされること」を示している。
日本では、ふるえおののく意味で用いる。


歌で謗られた幽王の王朝を滅亡に至らしめた褒姒に溺れる様子は相当なものだった。
即位の三年後、褒の地より後宮に入った褒姒を見てちょうあいするようになったが、褒姒は笑うことが無く、幽王はなんとか褒姒を笑わせようとする。絹を裂く音を聴いた褒姒が微かに笑ったことから国中の絹を集めては引き裂かせたという。やがて褒姒は王の子伯服を産むが、この年は関中で大地震が発生し、歴史記録官の伯陽甫は、亡国の凶兆だと記した。

ある日、幽王は兵乱発生の合図を烽火を上げさせ、太鼓を打ち鳴らし、軍を緊急招集する。駆けつけたが何事も無いのに困惑する将兵を見て、褒姒は初めて笑った。喜んだ王は以後しばしば無意味に烽火を上げさせ、何度も無駄足を踏まされた諸将は、いつか烽火で集まることが無くなった。また幽王は佞臣の虢石父(かくせきほ)を登用し、悪政を行なわせたため、人民の怨嗟を買った。

それから、幽王は正室の申后及び太子宣臼を廃し、褒姒を后に、伯服を太子に立てた。申后の父申侯は怒り、蛮族の犬戎軍と連合し、反乱を起こす。都に迫る反乱軍に、幽王は軍を集めようとして烽火をあげたが、すでに集まる兵は無かった。幽王と伯服は驪山の麓で殺され、褒姒は犬戎(けんじゅう)に連れ去られ、反乱軍は都を略奪し、財宝を悉く略奪した。
幽王の死後、申侯は廃太子となっていた宣臼を平王として立てた。しかし、兵乱により王都の鎬京は破壊されていたため、平王は東の洛邑へ遷都し、ここに西周は消滅し、東周が始まった。


何十行かの要約だけ見ればそんなバカなことが有るのだろうかというような所業ばかりでひとつひとつが重なり絡み合い滅亡に向かって当然の展開に見えてしまう。
では詳細を悉く分析すればまた別な側面もあらわになるのだろうかとも思わないでも無いが、西周最後の王、褒姒という女性を愛し、彼女の笑顔を見たさに王朝を滅亡させ、自らも反乱に遭い、命を失った、という数行にも満たない説明が全てを物語ってしまっているのが面白い。如何なる人生も要約すれば二行か三行となる。否、二行か三行に残るだけで十分過ぎるくらい十分やも知れないし、何も残らないのがいちばん良い。


monday morning白湯が心地良く全身に巡り渡る。

本日も。平坦。