鹿 | かや

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儒教の経典である経書のひとつに数えられる『詩経』は全305篇から成る中国最古の詩篇で、中国において古代から『詩経』と『書経』は「詩書」として並び称され、儒家の経典として大きな権威を持った。
その『詩経』(小雅)に鹿鳴の詩にがある。鹿鳴はその字の通り鹿の鳴き声のことだ。

呦呦鹿鳴
食野之苹
我有嘉賓
鼓瑟吹笙

呦(いう)呦たる鹿鳴
野(や)の苹(へう)を食(くら)ふ
我に嘉賓有り
瑟(しつ)を鼓(こ)し笙(しゃう)を吹く

前野直彬氏『風月無尽』の解説によれば、初めの二句はいわゆる「興」だ。「呦呦」が鹿の鳴き声で、「苹」がどのような草かは分からないが、ともかく草の名であり、古来の注釈によれば、鹿は苹を見つけると、呦呦と鳴いて伴(とも)を呼び、一緒に食べようとするものだという。おそらくここには群棲を常とする鹿の生態が意識されていたのだろう。しかし、詩はそこから出発して、めでたい賓客たちが自分のもとへ集まり、楽しい宴会を開くありさまへと進んで行く。

『詩経』には由来、儒家によって倫理的な解釈が加えられているが、それによれば、この詩は周の文王が群臣に宴を賜った時のことをうたい、明君・忠臣が共に天下泰平を楽しむさまを謳歌したものだという。
『詩経』は中国古典文学の聖典であった。
その中で、鹿の声がこのように描写された以上、後世の詩人たちは、拘束を受けざるを得ない。
たとえ彼らが、妻恋う鹿のわびしい声をわびしいと聞いても、そのまま詩にうたい出すことは、躊躇せざるを得なかった。
そしてそれは詩人ばかりでは無く、「鹿鳴」をめでたいしるしとする観念は、中国の知識層の間に固定してしまった、と解説にある。
唐代の科挙制度では、先ず各州・県で予備試験が行われ、それに合格したものが都での本試験を受ける資格を獲得するが、予備試験の合格者が都へ出発する前、州・県の役人が主催して開かれる壮行会を鹿鳴の宴といった。そこで、「小雅・鹿鳴」の詩がうたわれたところから名付けられたが、おそらく受験生たちが都へ上って、天子の「嘉賓」となることを祝福する心から出たものだろう。鹿の声が秋のわびしさをそそるものと考えられていたならば、めでたい壮行会の席上で、「呦呦たる鹿鳴」などとうたわれる訳が無い。
「鹿鳴」は常にめでたいものであり、天下太平の象徴だった。その観念が流れ流れて明治の鹿鳴館に至る。


また、春秋時代には太平和楽の音では無い鹿の声も考えられた形跡があるのも面白い。晋と楚の二大強国が対立していた頃、両国に挟まれた鄭という国があり、もともとは晋と安全保障条約を結んでいたが一方では楚とも通じていたのが晋に知れて、外交関係を断絶すると脅かされた。この時、鄭の大臣が晋への釈明の書簡を送ったのだが、その内容は、当方としてはそちらから次々出される要求に精一杯応じてきた、だがそちらの態度は当方を甘く見ている、小国でも国として扱ってくれるなら、当方もそれらしく応じよう、そうでない以上、危険な綱渡りをやるのも、当方の自由だ、それに文句があるならば、当方の全兵力をそちらとの国境線に集結させるから、お好きなようになさるがよい、というものだ。
その書翰の一節に「古人言へる有り」として「鹿の死するや、音を択(えら)ばず」という一句が見える。
「古人」とは誰のことかは分からない、おそらく昔からの言い伝えなのであろう。
この一句の解釈には昔から二説が有り、一説は、鹿は普段呦呦と和楽の声をあげる動物だが、人間や猛獣に襲われて死の危険が迫った時には鳴き声を選択する余裕は無いので、めでたくない声も出すものだと解する。
また一説では、「音」は「蔭」に通ずるとし、鹿が死に迫られた時は身をかくすべきかげを選んではいられないので、どこにでも身を寄せるものだと解く。
書翰全体の趣旨から見れば、後者の解釈がふさわしいのは瞭然で、一般に後者が通用している。

まるで異なる鹿の鳴き声を表した句なのが面白いし、特に鄭の大臣が晋へ送ったの書簡の一句の鹿の断末魔とも取れる鳴き声のリアリティーはある意味狩人の生活の実感無くしては表されない。呦呦と鳴きながら草を食む姿、狩人に逐われて逃げる姿、或いはまた悲鳴をあげて斃(たお)れ、肉を割かれる姿、特に第二第三のイメージは狩人たちの生活の実感から発しているようにも感じる。春日神社で鹿に煎餅をやるような悠長な趣とは全く異なる。
呦呦たる声をもって天下太平の象徴となり、ひとつは中原の鹿として政権争奪の比喩に転じているところは、たとえば万葉集の世界や古今・新古今の世界に見る発想とは著しく相違があるように感じる。


昨日、友人とドライヴで立ち寄った神宮の東京ドーム15個ほどの広い境内には、国譲り神話の鹿神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命(めい)を武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)に伝える重要な役割を担ったことから現在も鹿が神の使いとされているとされたところから何頭もの鹿の居る鹿園が有る。
前回神宮に訪れたのは若葉青葉が滴るように美しい季節で、広々とした境内をゆっくり散策したが、その時同様、目的は神宮からは車で少し離れた場所の鰻屋だ。
国道51号線沿いの景観には何の風情も無い別館と呼ばれるその鰻屋の本店は知らないが、この別館は人気の店のようで、店内に入るまで待つことになるようだが前回同様タイミング良くほぼ待たずに店内に入ることが出来た。
注文してからのんびりと焼き上がるのをゆったりと待つ間、ふと先ほど立ち寄った神宮を思い浮かべ、更に山本健吉氏が前野直彬氏に「日本での猿の役目をしているのは鹿で……」と話したところから、中国の鹿の鳴く音をうたった詩に着目した前野氏が様々に解説している一文を、差し向かいの友人を完全に置き去りにして思い出した。


sunday morning白湯を飲みつつまだ明けない空を眺める。

本日も。薄い。