逸話を眺めつつ | かや

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成り行きを見て、どちらにつくかを決めることを四字漢語で「首鼠両端(しゅそりょうたん)」という。
穴から頭を出したネズミが両方の端を見ている状態だが、態度を決めかねている場合に用いる。
『史記』(魏其武安侯列伝)にこの四字漢語のもととなる逸話があり、安倍幸信氏『中国史で読み解く故事成語』にその説明が記されている。 

呂后の時代にその一族・呂氏の専横があって以降、漢代にはしばしば外戚が力を持った。景帝・武帝の時代にも、竇嬰(とうえい)・田蚡(でんふん)の権力闘争があった。
竇嬰は文帝の皇后の親戚で呉楚七国の乱の際に武効を立て、景帝のもとで出世したが、景帝の死後、若くして武帝が即位すると、景帝の皇后の同母弟であった田蚡が影響力を増すことになる。
田蚡には竇嬰のような功績が有った訳では無いが、権勢にかさをきて、不遜な振る舞いが多かった。それは若年の武帝を遠慮させるほどだった。

田蚡は田蚡で、年少の武帝を侮っていたので、ある時、淮南王にこう囁く。
「お上にはお世継ぎが居ません。万一のことがあれば、高祖さまのお孫のあなたさまの出番です」
劉安の父は文帝の帝位継承にあたり有力な対抗馬とされ、文帝即位ののち、謎の死を遂げていた。
だから劉安は、武帝に対して、腹に一物有ったという。外戚のくせにこういう人物と結託するのだから、田蚡も相当信用ならない。
極めつきは黄河が大決壊した時の逸話で、被害は広大な地域に及んだが、溢れた水の流れは田蚡の領地から逸れていた。
田蚡はこのままにしておけば自分の所領が黄河の洪水に脅かされることは無くなると考え、堤防の修復を差し止めさせた。


竇嬰の落ち目に、取り巻きは田蚡のもとに走ったが、それでもただひとり竇嬰と昵懇にしていたのが、灌夫(かんぶ)だった。灌夫は強情で酒癖が悪く、人に媚びることが嫌いだから、田蚡とうまく行く筈が無い。田蚡の晴れの宴席で、俺の酒が飲めないのかと田蚡に絡み、挙げ句は招かれていた高官を侮辱したため、罪を得て処刑されることになる。
灌夫をかばって竇嬰が裁きに口を挟むと、田蚡も正面から反論し、決着がつかない。
武帝から意見を求められた韓安国(かんあんこく)は、どちらにも一理あると言って断定を避けた。
結論が宙に浮いたまま朝廷を退くにあたり、田蚡は韓安国を車に同乗させて当たり散らした。
「おぬしもわしも、失うものは無い老いぼれの身だ。何故、穴から首を出したネズミ(首鼠)が右か左かと窺う(両端)ような真似をしているのだ」
ぐずぐずと決めかねていることを「首鼠両端」と呼ぶのはここからきている。
相手は百戦錬磨の韓安国、無礼ないいようだが、韓安国は動じること無く、
「ああいうときは、仰るとおりと引き下がっておけば良いのです。商家のこせがれやそこいらの女どもでもありますまいに、言われれば言い返すなど、あなたもわからんお人ですな」


田蚡は納得したものの、それで譲歩するでも無く、事態は竇嬰に不利なかたちで推移した。
灌夫は一家皆殺しとなり、竇嬰についてもどこからともなく悪い噂が広まって、結局打ち首となった。
が、田蚡も流石に寝覚めが悪かったのだろう。間も無く床に臥せり、ひたすら詫び言だけを叫び続けるようになった。霊媒師を呼んで見せたところ、竇嬰と灌夫がとり憑いているという。そして、ついに息を引き取った。竇嬰らの死から、僅か数ヶ月後のことだった。

『史記』(魏其武安侯列伝)のこの逸話は面白いが、食えない男と解説にもあったが、譲歩しながらも事態を不利にして徹底的に相手をやり込めたほどの執拗な男が呆気ないくらいにとり憑かれ、死んでしまうくだりは何と無く逸話的な収束のつけ方に見えてしまうが、何と無く、目にし、耳にする四字漢語には由来となる実に面白い逸話が存在している。

「首鼠両端」は情勢ばかりを見ていて、捕らえた灌夫に判決を下さなかった検察長官韓安国に対して、そのどっち付かずの態度に対して当事者の田蚡が言った言葉だが、ゼロか百、白黒ハッキリさせたい人というのは許容力に欠けている。
看過するという柔軟性は皆無だから、なにがなんでも自身の感情に寄せた決着のみを望んでいる。
なんとも狭隘な心根だが、その許容力の無さは人を無駄に巻き込み、最終的には自身に全てが降りかかって行く。自業自得とでもいうのか因果応報とでもいうのか、一方的ということはあまり無くて何にしてもうまい具合に収まって行くのが面白い、などと、昨日、移動の車で、パラパラと捲った頁の「首鼠両端」の遠い逸話を眺めつつ、実際に見た極端な選択しか出来ない人の末路が浮かびつつ、そう思った。


friday morning白湯を飲みつつ、まだ明けない空を眺める。

本日も。薄いまま。