深い森の湖 | かや

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かやです。

昨日、朝食に立ち寄る幾つかの店のひとつで和食のひとときをすごし、ネイルサロンで四週間に一度のジェルネイルの付け替え。伸びた爪をギリギリまでカットして頂き、スッキリ。カラーもアートも毎回同じ。
右手。
左手。毎回同じ、ダイアモンドカットのストーンを三つ重ねて付けて頂く。

施術を終えて、サロンを出たところで友人に遭遇、僅かな時間だが近くのティーラウンジでティータイムを過ごし互いに近況を報告し合い、再会を約束し解散、移動し、紀尾井町で簡単な打ち合わせ後、移動し、ヘアサロンでシャンプーブロー、移動し、銀座で所用、大して何かをした実感も無いまま、陽の沈んだ空はすっかり暗くなっていた。


「半色」と書いてはしたいろと読む。
端(はした)と言えば中途半端とかどちらともつかいと言う状態であまり良い意味では使われない。
端金(はしたがね)はわずかなお金、問題にもならない額を呼ぶ。日本の伝統色に「半色」と言うどこか情けない色名に捉えられそうにも思えるがそれほど軽蔑した色名では無いと中江克己氏は『色の名前の日本史』で解説している。


かつて紫色は禁色で誰でも使えるという色では無かった。しかし紫色を身に着けたいという欲望を抑えることは出来ない、そこで紫とは言えないような中間の色を使った。浅い紫色だがこの色は紫に似て非なる紫ということで許された色だった。
重色目にも「半色」があるが、これは表が薄紫色、裏は白か表と同じ薄紫色だ。織色で「半色」と言えば、経緯ともに薄紫色の糸で織ったものだ。
「半色」は文字通り、紫色と比べると、紫みは半分しか無いが、いわゆる紫色とは異なる渋い味わいを持つ。
紫色が使えないから、諦めて「半色」をと言う消極的な姿勢では無く、むしろ「半色」は色彩として十分美しいとする積極性を感じさせる。
その時代、紫が禁じられた人々にとって、「半色」とは歓びの色だったのでは無いだろうかと中江氏は推測している。
そのようなかつての経緯を知らずに、色そのものを見ても、やや灰みを帯び、穏やかな美しい色だ。

一概に紫と言っても濃淡実に様々な紫色がある。色名も「紫」に始まり「紫根色(しこんいろ)」「深紫(ふかむらさき)」「浅紫(あさむらさき)」「二藍(ふたあい)」「桔梗(ききょう)」「葡萄色(えびいろ)」「江戸紫(えどむらさき)」「似紫(にせむらさき)」「古代紫(こだいむらさき)」「菫(すみれ)」「藤色」「藤紫」「紅藤」「躑躅(つつじ)」「牡丹色」「菖蒲色(あやめいろ)」「龍胆(りんどう)」「楝色(おうちいろ)」「紫苑色(しおんいろ)」「滅紫(けしむらさき)」等々、その色名の字面だけでも色々に空想が広がる。


ヘアサロンを出たところで遭遇した友人は静かな色調の薄紫のコートを羽織っていた。
いわゆる色見本で例えれば半色と呼ぶような、やや灰みを帯びた優しい紫色だ。
色の抜けるように白い友人にはその色調が殊の外よく似合っていた。
コートのシルエットも細身の友人をいっそう美しく引き立てるようにとても美しかった。
殊更、何かをしている訳では無いが、昔から友人は美しく、今も美しい。
ささやかなティータイムを過ごしたがコートの下は白のニットワンピースだった。
体のラインを優しくなぞるワンピースはやはり友人のスタイルの良さだからこそ着こなせるように感じる。
メイクを殆んど施していない、かといって、雑な素顔という訳で無く肌はきめ細かに整い、髪は無造作に後ろで低く束ねているが、手間をかけていることはその艶やかな毛髪が物語っている。ネイルも丁寧に施しているがほぼ透明で全く主張が無い。反応ありき、目立つことだけに注力してあれもこれもとグイグイ主張し加算する人も居るが、友人は全て削ぎ落として、尚、美しい。それにしても何度連発したか分からないくらいだが、美しいのだから、美しいとしか言い様が無い。
話し方も所作も丁寧で控えめな友人を見ているとさざ波ひとつ立たない深い森の湖が浮かぶ。
深緑に包まれた幽玄な森の中、遠い空を映した静かなみなもを眺めているような錯覚に陥りながら、心地良さだけを余韻に残す友人とのティータイムを過ごした。


thursday morning白湯が全身に心地良く巡り渡る。

本日も。適当。