三連休。
昨日は学童のイベントでした。
去年は、保護者会の役員をやっていたので、シスプラチン+ドキシルの1クールめのすぐあとの副作用でゲロゲロのなか、かなりハードにがんばったなぁと思い出します。
あれからもう1年か…。
案外、この先の1年もあっという間かも。
そして来年のイベントでも「あれはもう2年前か…」などと思っていたらいいなぁ。
今の目標は、なんだかんだと粘って、ぼーずが4年生になるまでは生きていることです。
4年生になるまで、超手抜きで、なんとか食事を作ったりができていたら、なおうれしい。
今日は、ぼーずはお友達の家族に地域の施設のお祭りにつれていってもらって、そばを打ってきました。
午後は、うちで同じお友達と遊んでいます。当然ゲームです。
しばらくしたら追い立てて、ちょっとは外で遊ばせなくては。
★ ★ ★ ★ ★
さて、ペットを飼いたい件。
前の記事で、その後どうなってるかをちょこっと書きましたが…。
現在、「飼う」という方向性は、私の中では決定していて、家族にも宣言しています。
具体的には、まだ何も動いていません。
「飼う」方向に決めたきっかけは、友人(ママ友さんですが、年齢が同じということもあり、子ども抜きでも友人になっています)が、
「将来、どうしても飼えなくなったら、私が引き取って面倒見るから、飼ったほうがいいよ! 飼いなよ!」
と、強く言ってくれたことです。
彼女の住まいは、都内のこのあたりとしてはやや広めの戸建てで、庭もちゃんとあるおうちです。
彼女自身は、大人になって実家を離れるまで、猫や犬を飼っている生活をしていたそうで、ペットのことはよくわかっている人です。
現在は、彼女の家ではペットを飼っていませんが、飼わない理由は、夏休みや年末年始に長めに帰省することがあるから、だそうで、それについては、対策を取れるから大丈夫と。
将来、彼女に引き取ってもらうようなことにならないのがいちばんですけれども、もし、どうしてもそうしたほうがいいという状況になったときに、少なくともペットになってくれた動物が安心して暮らしていける途は用意できたのではないかと思います。
それで、あとは、私自身の希望を押し通すことにしました。
生きている動物を飼うのだから、たとえば、がんになっても、できる範囲で仕事をしたりとか、何か習い事をはじめるとか新しいことにチャレンジしたり、やりたかったことをやったり、行きたかったところへ行ったり、そういうこととは同じではないです。
いちばんの違いは、ペットに対しての責任だと思います。
いのちに対しての責任は果たさなくてはなりませんが、“最後の砦”的な備えは、友人が協力を申し出てくれたことで、できたかな…と思います。
それと、自分がいなくなったあとも続くということ、自分ができなくなったら終わり、ではないということ。そこが、習い事などとは違うところです。
それは、家族に頼むしかないです。
その家族=ぐふは、反対している(ぼーずには、私の今後の見通しを話していないので、意思の確認はできてません)。
この状況でペットを飼うのは、私の我を通すことになりますが、家族・友人に協力をお願いすることに決めました。
この件も、例によってかな~りうだうだと考えて、今に至っています。
でも、うちはぐふが反対しているからうだうだ考えてしまっているだけで、きっと多くのご家庭は、ご家族が「いいよ、飼おう!」と言って飼うことになるんじゃないだろうか…?
むしろ、家族のほうが、患者さんが元気になれればと、ペットを飼うことにしたりするんじゃないだろうか?
そういうブログ、見かけるし。
なので、私のうだうだの内容は、ほとんどの方には意味のないものだと思うので、以下はスルーしてくださいね。
でも、もしかして同じような人もいるかもしれないし、自分のメモになるので、書きます。
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うだうだの中身がごちゃごちゃしていますが、大きなこととしては、
一般的な話として、
「病気などの理由で、いつまでかははっきりしないけど、さいごまで自分が責任を持って面倒を見られないことがわかっているのに、ペットを飼うのは、ペットに対して無責任か?」を考え、
自分自身の問題として
「自分は納得できるのか? 恨みながら死ぬことにならないか?」を考え、
家族の問題として
「ぐふは反対。ぼーずは口では『飼いたくない』。そして、ぐふが将来負担がかかるのが明らかなのに、いまペットを飼うのは、無責任・わがまま・自分勝手・押しつけなのか?」を考えています。
ペットを飼ったときのプラス面、マイナス面(マイナスというか負担の内容・程度について)などを想像して、それをもとに考えるということもできなくはないのですが、将来、私がいなくなってからの生活がどうなるのか、今の段階では、正直よくわかりません(それを考えるのが苦痛ということもあり…)。
よい面、負担な面、どっちもいろいろあると思います。
「ペットは、世話をする負担はあっても、それ以上のものをくれる」ということは、ペットを飼っている方達が皆さんおっしゃることです。
どのくらい手がかかるかについても、動物の種類や個体によっての差があると聞きます。
わからないことがいろいろある中で、プラス面とマイナス面を比較して、どちらが多いかを決めるというのは無理なこと。今の段階では、意味もあんまりなさそう。
なので、ペットを決める段階で、負担の面については具体的に考えて、それが対処できるものかどうか、どういう対処ができるかなどを考えていこうと思います。
一般的な話として、ですが。
自分がさいごまで面倒見られないなら絶対にペットは飼えないというのは、ひどくないかな、と思います。
周りに助けてもらってできることだったら、助けてもらっていいんじゃないのかな?
自分が面倒見られなくなったときに、ペットを投げ出すのではなくて、その先の備え(家族や友人に助けてもらう、里親をさがせるようにしかるべきところにお願いをしておく、など)をするというやり方で、ベストはやり方ではないにしても、ペットの命に対しての責任を果たすことはできるんじゃないか?
へりくつになりますけど、誰だって先のことはわからないのですから…。
(がん患者をこう言って励ましてるつもりで傷つけている、がん患者じゃない人はたくさんいますよね…。うちのぐふとかね (-"-; )
遠くない将来に死ぬのは確実だとしても、いまは生きてるんです。
健康なときのようには生きていられてないけど、まだまだまだまだ生きていくんですから。
自分自身の気持ちとしては、これで、飼わずに死ぬことになったら、私は「家族が協力してくれたらできることが、できなかった」と恨みがましく思いつづけるだろうということがわかったのです。
前にも書きましたが、ぼーずに「うらんでやる」とか言っちゃってるし…。
そのあと、ぐふとけんかしたときにも「うらんでやる!」と言ってます。
(このときは、ぐふが全然関係ない言い合いに、ペットのことを持ち出して「ペットを飼ったら、そのことでもっと家の中がトゲトゲする。だから、おれは反対なんだ」と言いだしたので、ブチギレてしまいました。細かいことは省略しますが、ぐふは言われてもっともな注意を受けたことが気に入らなくて、嫌がらせで、関係のないペットのことを持ち出してるのです(-""-;))
ブチギレて言ってることではありますが、本音です。
それくらいの希望は叶えたいよ、と思います。
もともと、病気になる前から、家族でやろうとしていたことだから、というのも大きいです。
もしもあきらめたときに、さいごのさいごまで、このことについて、ぐふを許せないような気がします。
それを避けたいというのも、ちょっとですけど、あります。
恨みをのこして逝くのはイヤですからね…。
今、ぐふに対して「あれは許せない!」と思っていることはいくつもあって、でも、それらはさいごにはどうでもよくなるのではないかな~と思っているのですけど、ペットの件に関しては、さいごまで許せないような気がするのです。
家族に対してどうなんだ? 家族としてどうするんだ? ということですが。
ぐふは、「おれは自信がない」と相変わらず言っています。
「飼わないままになって、私が死んだあとに後悔しないの? もし、私だったら希望を叶えると思うよ」
と、かなり卑怯なことを言ってしまいましたが、ぐふは
「まぁ、何をどうやっても後悔はするだろうから。大変になるのがわかってることをするのは…」
と言っていました。
自分の大変さが、反対の理由のメインです。
ぐふの立場になってみれば、飼いたくないのも無理ないように思います。
ぐふは、自分が中心の困難な人生を生きているのです。
ぐふの考えを尊重してあげるというのも、賢いやり方だと思います。
ですが、ここは、ばかなほうの道を行きたいと思います。
わがまま、押し付けだ、と言われたら、そうかもなぁと思います。
でも、ほんとのところでは、わがままだということには、私は納得はしていなくて、「それってわがままなんだろうか?」と思っています。
逆に、家族が飼いたいと言っているのに、「いま」でないとダメな理由があるのに、自分が大変だからと反対するぐふは、わがままじゃないんでしょうか?
どっちもどっちじゃないのか…?
あとに残る者のわがままのほうが優先ってことなのか?
かといって、自分のほうが優先されるべき、とも考えにくく…。
なんかスッキリしません。
わがままじゃなく逝きたいけど、でも、わがままでもいいか、とも思います。
ただ、これはね…、本人はよくても、まわりはよくないですよね。
「わがまま言ってもいいじゃん」と、「本人がよくても、まわりはたいへんだよ…」というのとで、ギッタンバッコンです。
仮の話でしかないけど、「私ならそれくらいのわがままは受け入れられる」と思うんだけど、それを相手にも求めるのは押しつけだ、とかも思えるし…。
考えていくと、ひたすらぐるぐるとめぐってしまいます。
開き直るというのがもともと嫌いなので、あまりやりたくなくて、人に開き直られるのもあまり好きではありません。
それでうだうだぐるぐるやってしまい、キリがありません。
これは、どっかでぶった切るしかなく…。
自分の我を通すほうに決めました。
飛ぶ鳥あとを濁す…か?
ま、もともとそんなにきれいに人生を終えられるとは思ってないし…。
いやいや、違う違う! ペットは“濁り”ではないはずです。
ペットがいるのは幸せなこと。
現状では、家族への幸せの押しつけという面があることは否定できないけど、ただの押しつけにはならないだろうとも思うんです。
ぼーずもぐふも、そこまでぼんくらじゃないだろうというか…。
ぼーずもぐふも、生きている命を前にして、主体的に関わる気持ちが生まれるんじゃないかと思うし、自分の中から湧いてくる幸せを感じられるんじゃないかと思うんです。
それに、私が家族にわがままを言って押しつけて、家族がしょうがなくそれに耐えて…というような一方向にだけ流れている話ではないはずだよ、と思います。
もっと双方向だったり、ペットを加えたときにもっと別方向の流れが新しくできたり、広がりがあったり、時間の経過があったり、長く残るものがあったり、もっとぼわっとした、ごちゃっとした、うわーっていうような、もっと大きいものなのじゃないかと思います。
その思い込み自体が押しつけだといわれたら、もうどこまでもぐるぐるが終わらないわけですが…。
結局は、きれいごとじゃすまない、ってことだろうと思います。
きれいごとですませたかったら、あきらめるのがいちばんいいんでしょうけど、それじゃすまないんです。
それでも、まだ、迷ってもいます。
まだ、何も具体的には動いていないので、具体的になっていく過程で、やっぱりむずかしいな…とあきらめる方向に行くことも、かなりあり得ます。
そこは、意地はって頑固にならないように、冷静に見ていきたいと思います。
私が「飼うことは決めたから。協力してください」と宣言したら、ぐふは「すぐには決められない」とか、「おれは反対してるわけじゃない」とか意味不明のことを言っていました。
ぼーずは、「おかあが飼いたいなら飼えば」という態度ですが、テレビや道を歩きながら、猫を見たら「おれはねこがいい」と言い、犬を見かけると「やっぱり犬がいい」などと言っています。
「飼ったら、手伝ってよ」と言うと、「やだ」と答えたり、「あー」(肯定の意味)と答えたりしています( ´艸`)
具体的には、まだなにも進展していません。
年末年始は留守がちになるので、来年になってから、具体化したいと思っています。