袖摺坂
狭い坂道でお互いに袖を摺り合わせるほどだったという。そんなことから、誰いうとなく袖摺坂というようになったという。
舗装階段になる前のこの坂道を見てみたい。
こんな風流な名前★★★
神楽坂
神楽坂の由来については、坂の途中にあった穴八幡の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽がこの坂道で聞こえてきたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったから などの神楽にちなんだ説あり。
江戸イチ楽しい坂道★★★
蜀江坂
かつてこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に三代将軍家光が鷹狩でこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したからだという。新宿の喧騒を離れた静かな通り。★★
成子坂
豊多摩郡誌によれば、「成子坂は、成子神社前の緩斜路をいう。石地蔵は其南側にあり、年月を刻せず、古きものとも見えざるが、香火常に絶えず稚児を喪いしもの供養する所なるにや、傍に庚申塔数基あり、延宝八年(一六八〇)、同五年(一六七七)の文字を読む、毎月十一日、二十二日はこの石地蔵の縁日、また毎月二十五日は成子神社の縁日として夜店多く並び・・・」とあり、成子坂一円は非常に賑わったところだったことがわかる。とにかく車の通行量は都内屈指の青梅街道。歩くと結構傾斜があることに気付きます。★★
中野坂
中野の名称については、江戸名所図会などに、武蔵野の中央にあることから、「中野」と呼ばれるようになったことが記されている。
青梅街道のこの辺りは、江戸の頃から堀の内のお祖師さまとして知られる妙法寺への参詣者の通り道としても賑わっていた。
坂上には、「弁慶」という菓子店と「大団子」と称する団子屋があり、「弁慶」の水飴と「大団子」のつけ焼団子は、当時中野の名物として知られ、堀の内祖師がえりの土産として好評を博した。
この中野坂の上が中野坂上。単純だけどナルホド!★★
夏目坂
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。
だらだらと長い坂道だけど、何となく趣きを感じられる。★★
下戸塚坂
江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(一八七二)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。
その昔なら忍者が飛び出てきそうな坂道★★★
グランド坂
戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和二四年、早大野球部育ての親、安部磯雄教授の逝去により安部球場と改称し、昭和六二年まで存続した。
今や早大生もあまり通らないけど、ステキなカーブのある坂道★★
相生一番坂
青梅街道方面から相生通りへ下る坂道東側が一番。
生活環漂う坂道。★
相生ニ番坂
青梅街道方面から相生通りへ下る坂道東側が二番。
ダラダラと長く細い坂道。★
山吹坂
この坂上の大聖院にある「紅皿の碑」にちなみ,こう呼ばれるようになった。
紅皿は 太田道灌の山吹の里伝説で,雨具がないことを古歌に託して,道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。結構急な階段。お参りのご利益感じる?!★★
不動坂
天台寺門宗の寺院で、梅松山大聖院五大尊寺という。
本寺は不動院といって、西向天神社の別当寺であった。明治維新時の神仏分離令で西向天神社と分かれたが,その際,同社に伝わった文書類を継承し、現在でもそれを所蔵している。境内は狭く,ほとんど古いものはみあらたないが,ただ一つ,太田道灌の山吹の里伝説で知られる「紅皿の碑」は有名である。この碑は、もとは同寺に隣接する法善寺の崖際にあったもので,崖崩れのために現在地へ移したといい,江戸中期にはすでに現在地にあったことが知られている。風化によりかろうじて「不」だけ読めるが他の文字は謎!★★
久左衛門坂
この坂は,徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため,こう呼ばれるようになった。東京というよりもなんとなく箱根湯本の裏道のような坂道。★★