モノには必ずルールってものがあると思うんです。

どれだけ不規則にみえているそれも、何かしらの規則に沿って並んでいる。
線一つ、コトバ一つ、恋一つ。
それが見える様になると、なにかしら人向けの耐えうるものを捻出出来るようにはなる。

そのルールを見出すことが多分一番頭を使うべきところであって、
ゼロスタートのそれを生む努力というよりは才能、
それも限りなく少ない確率の才能にありつくよりかは、
現実味もあるし、有用でもある。。。と思うんです。

それ故に「真似ること」ってとっても大事。
モノの構造を知り、昇華するためには欠かすことの出来ない作業であって、
なによりルールを身につける最短の手段。

それなしに立ち行く例は、僕はほとんど目の当たりにしたことがないし、
仕事の上でも、生活の上でも、
大概のアイデアは別の既成のアイデアの伏線上にあるものだとも感じてるんです。


いや、それでいいと思うんですよ。
そんな、何の例にもなぞらえられないものが人の手につくとは思えないし、
人を考えない、受け手を考えないアイデアに価値を見出せない性分なので。

それ故に、独りよがりのアイデア、主観のみのアウトプットは認められない。
説明がつかないなんてのは言語道断。
理由付けすら放棄した時点で、受け手を侮辱するに等しい応対だとも思っています。
最早、感性の範疇でなく、礼儀の問題なんですよね。

少なくとも、受け手にとって、送り手にとって非礼でないこと。
ルールを汲むこともそうだし、見出すための努力を注ぐことも最低限の礼儀。

その分野での同等の対話、その土壌に立つために必要なことは、
能力や技術でなく、基本的な「姿勢」なんでしょうね。
運転をしていると、ひょんなことから前の車のナンバーから、
乗っているだろう人のことを想像しちゃうんですよね。

「3104」・・・さとし君か?
「・609」・・・6月9日生まれ??いやロック好き?
「1107」・・・11月7日。。。!?いや、「イイ女」だろ!?

なーんてね。

とかく、意味付けの困難なナンバーであればいいのだけど、
下手に何の所以も無いナンバーを掲げていると、
知らずのうちに妙なレッテルが貼られたりしてるんでしょうねぇ。

昔「BIKINI」ってナンバーのロータスエリーゼが、
何ものを凌駕するように路駐してあったけれど、
車に語らせるってのも面白いよね。
かっこつける大切さっていうんですかね。

青春時代に異性から、仲間からどう見られたいかという、
過度なまでの神経の尖らせ方。
おそらく、毛先一本に集中したであろうその過程は、
ある程度歳をとった現代においても、礼儀や最低限のマナーを形成する上で、
必要だったことなんだろうなぁと今更ながら思います。

傍から見てどう見えるかを想定に置く。
その上での話の展開や、行動に、どれだけその想定を滲ませないかが、
コミュニケーション能力や理性として扱われる節は少なくない。
内面の化粧とでも言えるんでしょうか、
本意を隠しきった上で、本意に辿り着くことを、
人、特にこの日本においては礼儀やマナーとして扱う様です。


どれだけ自分が”見られたい像”を抱いていても、
そこに足がついている様じゃ、人はそれを真にうけることなんてまずないです。
経験をふまえた人間を前に、まるで知ったかのような事柄が通用する道理が無い。

それをどんだけがむしゃらに相応しく形成出来るかが、
多分、人に認められるための第一歩。
数でいくか、論理でいくかはそれぞれとして、
そんな経験則を両断するのが唯一”一生懸命”であることなんでしょうね。


明日は宣伝会議賞の一次審査発表。
時間のない中で勢いと言うよりはコツコツとやってみてましたが、これも一歩。
他人に比べれば努力と言うにはまだまだ足りない一歩だけれど、
踏み出さないよりゃマシだわな。
鼻が利くというか、なんというか。
本当に余計な時に限って現れる人間っているんですよね。

今日もそれを目の当たりにしたのだけど、
まず、当の本人がまったくそれらの行動に意識をしていない。。。
そうやって、ここまで世の中を渡ってきたのかと思うと、
天性の才能を感じざるを得ません。。。

一個人に対して、文字通り「余計な時」っていうのは、早々あるものじゃないけれど、
いやー、恐れ入った。

運を引き寄せる超人は随分前から身近でよく知っていたけれど、
そういったタイミングを引く人種って絶対いるんですよね。

こればっかりは、努力の範疇には置き換えられるものではないので、
諦めるしか無い。。。か。
コトバってのは、不思議なもので、
小説だとか、雑誌のそれを流用してみたところで、
それそのものの同じ意味を流用先に携えることって、なかなか出来ないんですよね。

いろんな背景があって、そんな人のその口だから言えること、
下地があるから、携えることの出来る意味っていうのがあるんです。

言う資格、までとは言わないけれど、
少なくとも、そう口走る前にやるべきことってたくさんある。

タバコ吸いながら環境汚染を語ったり、
選挙に行かないくせ、政権批判をかましたり。

人間は完璧じゃないので、揚げ足を取ればどうとでも言えるものなんでしょうが、
思い返すまでもなく論理破綻の足がついている時点で、
人にコトバを届けるなんてことはまず出来ない。

もちろん、そのことにすら気付かないなんてのは、
相手にすらされなくて当然なんですよね。

少なくとも相手側に耳をもってもらうために、まずやらなければいけないこと。
自分に理由をつくらないというのはそういうこと。


広告なんてのはその最たるものでもあるんでしょうね。
パチンコに行かない人間がパチンコの広告をうてないように。
フェラーリの広告なんてのは、僕には一生作れないんだろうな。

そういった専門領域から、一般の受け口に対してどう門戸を開いていくかの、
細かな論理組み立てが、広告クリエイティブの根っこなんだと思ってます。

その受け入れられ方の道筋が見える人間って、
才能と言うよりは、これまた人柄なんですよね。

業界が違うけれど、この人がクリエイティブやってたら面白いだろうな~って人が
いるんですけどねー。