マイナスを想定していれば、傷つく心の幅はせまくて済むから。

多分、言う通りなんですよね。
期待をする分だけ、それが適わなかった時には真逆に気持ちが振られる訳で、気持ちをハンドルする恋愛は特にこういった構え方が多い様な気もします。

そんな振られ方すらも楽しむ余裕なんて誰もが持てるものではないことだと思うんです。
でも、そんなマイナス想定を「ほらね?」というためだけに構えているのも、生きている以上はなんだか寂しいものだよね。


不安だらけなんだろうな、人間は。
憶測と準備の狭間で、描けないものばかりとウンザリするくらい競い合ってる。人間性だったり、背景だったり、偶然だったり。
計算なんて出来っこ無いことばかりを、あたかも計算出来る様なツラして宣う人間がいたりするものだから、対比的な自分を矮小化させる。可能性が摘まれるのは、結局そういった不安に対する自らに過大評価した煽りをモロに喰らってるからなんでしょうね。

話してみると、聞いてみると、調べてみると、やってみると。
知ってみたことで、いろんな柵が広がることを経験として心得ているつもりではあるんだけど、想定に殺されていた過去の自分を振り返ると、なんだかんだ大げさに構えていたことが多いです。
やれたからでなく、失敗した時もすべて含めて、うん・・・やっぱり多いと思う。

準備を無駄だとか損とは言わないけど、そこに不安を盛り込んでいた分、初動と期待に応えられなかった自分はとても歯がゆかった。ありもしない状況に足を引っ張られた結果は、受け入れるのにも時間がかかるもんなんだよなぁ。。。後悔しか残らない。


不安をただただ不安視しないことを推奨するのも単純で素晴らしいことだと思うんだけど、それ以上に「状況は自分が思う程悪くない」とは思えるものでは無いのかしら?
なんだろう、後悔しないためというよりは、その状況に関わる人のため。率先して知っていくことが、いろんなものの正しい落としどころを示してくれる様な気がするね。


・・・う~ん、一人ブレストな文章になっちゃった。ま、いーか、たまには。

「FOMO(Fear of Missing Out)」と呼ばれるこの現象は、FacebookやTwitterなどのSNSを常に確認しないと不安になる心理状態のこと。ソーシャルメディアの普及とともに台頭してきた社交不安障害のひとつ。。。だそうです。

http://www.lifehacker.jp/2012/08/120820jomo.html

FOMOなんて学術的な用語も出始めてるんですね?おそらくにしてこの現代、スマホ市場にはいろんな人が当てはまるのではないかという兆候だと思います。


準えて、そこまで論理だったことを書くつもりは無いけれど、なにかと「つながり疲れ」は皆が感じているんだと思うんです。
知らされすぎるというか、LINEのアップデートもそうだけど、そこにまで「なう」だとか近況を共有する必要性は個人として感じない。そこまでにして切迫した人との繋がりを求めてはいないし、互いに知らされる情報のみで、あたかも関係を保持しているような錯覚に陥るのも、街ですれ違う以上に希薄な関係とも考えています。


SNSは利便性の向上には間違いなく寄与している。ただ、携帯電話の普及もそうだったけど、人ひとりの本来持ち得る境界を壊してしまう様な、漠然とした不安も同時に感じるんです。
懐古的に「昔は好きな人の家に電話をかけて、まずは親父さんの関門を突破しなくてはね?」なんてことは、僕らの世代には必ず挙げられるたとえ話になるのだろうけれど、今一度門を叩き、玄関で靴を脱ぐ所作を考え直してみるべきではないのかなと感じてます。日本人らしくね。

・・・なんて書いてしまうのはやっぱじじーなんですかね?
対応出来ないことではけしてないけれど、それゆえに失ってしまうものの方が多く見えてしまうのは、年齢あってのことなのかな~。。。

必要性を感じた時に、つながりを形成する。
そのタイミングまでは、これ以上アカウントばかりをつなげることに本意を置かず、ちゃんと会いにいくことを大切にしていきたいと思ってます。

人だもの。
黙っていると、あらぬこと、必要以上のこと。。。いろんなことがネガティブに走ってしまう。

これ人としては仕方ないことなんでしょうね。
比較出来ずに、自らの不安定な解釈だけで辿り着こうとするんだもの、グラグラになって当然なもの。不安定な要素が、確実だった要素こそも不安定にさせたりして、必要なかった猜疑心をあらゆるものを対象に生んでいく。なんでもそうだけど、そんな足場で上手くいきっこないです。

だから、その根底にある「黙ること」を「話すこと」に変えることが必要になってくるんだと思うんです。
喋るってことだけじゃなくて、アウトプットすること、接触を持つコミュニケーションに置き換えることではじめて外的要素との比較に立つことが出来る。そうすることで、少なくとも己の解釈よりは確実に安定している「事実」とともに立つことが出来るようになって、固い足場が形成されて、はじめて正面を向くことが出来る様になる。
突飛な話に置き換えるなら、雷の中、なぜか大きい建物の中だと安心するそれと似た様なもんです。。。違うかw?

そこではじめて判断という基準に立てるようになるから、人は未来を描く様になる。


何をもって事実とするかはもちろん人それぞれだけど、信じたいものを事実としても、一般を寄せ集めてならしたそれを事実としてもいいんだと思います。
それこそは、自分がどの環境の中で本当はどうありたいかの努力義務だと思うし、はたまた環境をどう固めていくかを生き難いものにする必要もないと思うので。それ故に、当然、人のせいにもしちゃいけない。

それが最終的な社会の評価に繋がった時に、判断されるものこそが言い訳も出来ない「自分」。でも、前を向いて描いた自分のはずなんです。
成功でも失敗でも、悩むなら多分そのステージの方が前向きだよね。


・・・というね。
初動が今日はあったもので、僕自身は「文章」というアウトプットに置き換えてみました。
自分と向き合うばかりで物事が解決出来てれば、世の中こんなラクなことはないです。

さ、明日をがんばろう。

結果、一人悩む時間をどれだけ減らすかも、重要なことだよね。
長文だったけど、意図して消しました。

割と人によっては気分がよろしくない文章になってしまったし、その可能性がある以上公開するのは非礼かなとも思いまして。。。
それもこれも自分なんですけどね。ま、ちょっと落ち着きます。



・何か明るい話題がないかなーと思ってみても、オリンピックだったりとかとかくニワカなこと言っちゃいそうな部類ばかり。
最近は前の記事にも書いた通り、自分をどの専門分野の色つけていくかの思案を重ねています。
環境ばかりを憂う言い訳がましいことやる前に、自らに興味を走らせていかないと、人間的なこれからの魅力も薄れてきそうな気もするので。

・本を読む生活に再突入してからは、何か少しだけ世界観が流れ込む感覚をおぼえたりします。
物言いとして不自然なことも、なにかスッと受け入れてしまう様な幅が、いいのか悪いのか出来ちゃったし、これが自分の言動に繋がらない様にしないとなと思いながら、黙々と読んでます。
感化されやすいんだろなー、なんだかんだ言ってさ。

・このところの猛暑に続く、立秋以降の過ごしやすいニッポン。季節が狂ってるのはもう聞き慣れたこととして、個人的には「地軸傾いたんじゃね?」とか思ってます。
四季感がこうも薄れてくると、日本の魅力の大半が失われるようなさ。いらない心配をイチ国民がしているわけです。


以上の三本立てを勝手ながら代替として。

p.s このブログの下のFBイイネボタン押してくれてる人、書いてる側にはどなたかは判別つかないんですが、毎度ありがとうございます。m(_ _)m
ここにきて、なにか自分に足りなさを感じているのがこの専門性ってやつです。

何を手に社会へ貢献するかを考えた時に、ことあるごとに妙に至らなさを感じることが、自分の手先の中途半端な具合。
何かにつけ、送る側、作る側を意識する生活を余儀なくされてきた部分もあってか、多分いろんな発信、制作側のノウハウはかじってきてるんだと思います。
ただ、自身として、それぞれが専門と言えるくらいにはまるで到達していなくて、浅いものばかりを揃えている。
これで社会の一翼をなんてのは、どれをとってもおこがましくて言えたものじゃない。

そういった意味で、一般に代替するわけではない、専門性をもつ仕事をされている方は、当然年齢関係なく尊敬しちゃうところが最近は特に色濃くあるようで、この短い人生をどういった専門の色に塗っていくものかを考え始めてます。

才能だとか、そういうものを頼った勘違いしやすいものでなく、もっと地に足の着いた学ぶ技術。
そこに人生を委ねると言えばすこし重いのかもしれないけど、なにか自分らしい色合いを醸し出せるような専門性を少し探し始めています。

自分には出来ないだろうで踏み出さないこともたくさんあったわけだけど、そういったものももう一度再考する余地はあるような気がする。可能性を全面的に信じ始めています。

需要をまずはアンテナ広く咀嚼していくこと。時間はかかるかもしれないけど、この年齢だからかな、少しそういったスタンスこそが、面白く、大切な時間を作ってくれそうな気がしてます。


まずは、・・・からはじめてみますかね。内緒。