3日ほどブログ休んじゃったけど、実は土曜日の朝、お腹に激痛が走り、動けなくなりまして、人生68年にして、初めて救急車に乗る羽目になりました。

 地元の総合病院のお世話になったんですが、病名は「尿路結石」、大きいものは超音波で破砕するそうなんですが、そこまで大きくないそうで薬で溶かして流す方法を続けています。

 痛みが治まれば、全く健康体なんですが、薬を飲んで数時間後に再び激痛がという繰り返しで苦しんでおります。

 なんとか、明日中には収まってほしいんですが…。

 それでも、五葉松の古葉取りは痛くない時間帯にボチボチやりました。なんとか最初の1鉢は済ませましたよ。


五葉松古葉取り後
 なんか、前回の手入れ前写真と変わり映えしないけど、とにかく古葉はとりました。

 体調が良ければ明日も別のをやります。


 そんなわけで、犬山城には行けていません。仕方がないので今日は、ものの本に載っかった犬山城をご紹介します。


斎英泉 天保6年頃
 天保6年頃に書かれた「木曽街道69次之内」より渓斎英泉が描いた犬山城です。

 英泉が犬山に来た記録もなく、実際の犬山城とはかなり違う絵になっています。


白帝城眺望図(文政年間筆).
 文政年間に描かれた犬山城です。対岸の鵜沼から見た図です。「白帝城眺望図」と書かれており、江戸時代の儒者荻生徂徠(おぎゅう・そらい)が李白の詩 「朝に辞す白帝彩雲の間・千里の江陵一日にして還る…」 から取って白帝城と命名したと伝えられているとおり当時から犬山城が白帝城と呼ばれていたことがわかります。

  この絵は櫓の位置など、かなり正確に描かれていると思います。天守の真下に「千貫櫓」が描かれ、右には「弓矢櫓」、「小銃櫓」が、また、川端には左寄り「川端丑寅櫓」、「井戸櫓」までも描かれています。

 また、西谷御門と思われる櫓門や三光寺山も右隅に描かれています。作者は絵に記されているけど残念ながらオイラには読めません。(学がない…嘆)


曽川暮秋帰帆図
 地元の絵師、神原鳳章斎の筆による「曽川暮秋帰帆図」です。名勝と謳われた「赤岩」を手前に排した構図で好きな絵です。鳳章斎は嘉永7年に犬山で亡くなっていますので、文政~嘉永年間の筆と思われます。

 なお、鳳章斎はオイラが生まれた家の近所に住んでいたそうです。


尾張名所図会・木曽川と犬山城
 天保年間に描かれた尾張名所図会より「木曽川と犬山城」です。尾張藩士の小田切春江の筆です。

 犬山を乾峰(いぬいやま)と書いており、犬山の地名由来は諸説あり、はっきりしないが、オイラは針綱神社の祭神・尾治針名根連命の親にあたる大荒田命を祀った大縣神社から見て犬山は乾の方角にあたることから乾山(いぬいやま)と呼ばれていたものが転じて犬山(いぬやま)になったとの説が有力だと考えています。


ほな、また…。




五葉松古葉取り前

 五葉松は、5鉢持ってるから、そろそろ古葉取りを始めないとヤバいかなと思い、この五葉松から始めました。

 2時間ほどの作業で半分くらい済ませましたが雨は降るわ、蒸し暑いわでダウン。

 残りは明日やりま-す。


 さて、犬山城内部の写真を撮影すべく天守閣へ行ってきましたが、時期が悪かったよ。

 えらい人出で、入り口係りのおじさんに「写真なんか撮れえせんでと言われてしまい、すごすごと引き上げる羽目に。

 仕方なく、本丸内で紹介していない写真を撮って帰りました。

 なお、「来週ならいいと思うよ」とは、履物係りのおじさんの弁。

 また、来週行きますわ。 高齢者の市民は、無料だからね。


天守入口
 入り口の光景です。こんな感じで、見学客が数珠つなぎでした。やむなくここから退却しました。


天守石垣と付櫓02
付櫓から見た天守と石垣です。


付櫓03

付櫓を入り口方向から見た写真です。子供が顔をのぞかせています。


本丸多聞櫓

大砲櫓(手前)から七曲り門(奥)まで設けられていた多門櫓跡です。

天守内部の写真は来週までお預けなんで、明日からしばらくは、昔の写真や絵図でもご紹介します。


ほな、また…。

 花梨の実がなかなか、大きくならないなあ!と思って、実を数えてみたら12個付いていました。盆栽で1鉢に12個は多いですね。これでは多少、小さめでもやむを得ないか?

 もっとも毎年、秋口にけっこう落果するけどね。


花梨の実なり
 水切れで葉が焼けている部分が見られます。よく落果しなかったもんだ。

 よく見ると下枝についている実は幾分小さめです。あたりまえか?


 さて、今日も犬山城のご紹介です。

 いよいよ天守内へ入るのかと思われるかもしれませんが実は、まだ撮影していません。

 雨が降ったり、盆休みで観光客が多く、写真が撮れそうもなかったりして、やや苦戦しております。

 したがって、本日は天守外観でご勘弁を…。


天守台石垣

天守台石垣です。野面直線積みという城郭では最も古い積み方だそうです。花崗岩を使用しています。


天守
 天守閣です。3層4階、地下2階で、望楼型天守と言うそうです。国宝です。

 1537年創建と記述している資料が多いですが、その頃は天守を創られることはなく、私は美濃兼山城

からの移築とするのが妥当だと思います。

 符牒や釘穴が一種類しかないことを理由に移築説が否定されてきましたが、昭和の解体修理の際も同じ釘穴を使用しており、同じものを組み直すのであれば符牒も打ち直す必要がないのです。

 加えて、兼山城の天守台と犬山城の天守台は形、大きさともピタリと一致しますし、犬山城の特色である付櫓も金山城には小天守と言われ付属していたのです。

 第一、移築が確認されている櫓や門があるのに、天守のみ移築しなかったとは考えられない。

 ただ、兼山城は2層2階であり、犬山城は3~4階の望楼を移築の際、新たに乗せ加えたものと考えるのが妥当と思います。


付櫓
付櫓のアップです。明治24年の濃尾地震で倒壊し、資金不足等により再建されなかったものを昭和の大修理の際に復元したものです。


石落し
天守の西北隅の出っ張りです。「石落としの間」などと言われていますが、オイラは、兼山移築説派ですから、兼山ではこの位置は本丸御殿からの出入り口にあたると思われることから、御殿との連絡用の施設だったのではと考えています。


樅の丸下の内堀です。前回、紹介できなかったので今回、ご紹介しました。

内堀3

今日は、ここまで。ほな、また…。