長松幹「乞復古記編修議」―維新史編纂の執念― その1 | かんがくかんかく(漢学感覚)

長松幹「乞復古記編修議」―維新史編纂の執念― その1

明治14年12月、太政官修史館 はその業務内容と編纂体制を

大きく再編 しました。

それまで修史館 の運営の一角を担ってきた川田剛 (1830-96)

依田百川が転出し、また維新の歴史を編纂してきた部署が

廃止されて四屋恒之らも館を去りました。


太政官正院歴史課 の時代から維新の歴史を編纂することは

明治政府による修史事業 の柱の一つであり、長松幹(1834-

1903)がその部署を主宰してきました。



     


今回紹介するのは、維新史の編纂業務、すなわち『復古記』

編纂の停止を受けて、長松がその編纂を再開することを

強く誓願した文書です。

乞復古記編修議(復古記編修を乞ふ議)」と題されたこの文書からは

長松の維新史編纂にかける強い意思を読み取ることができます。


それでは早速、本文を適宜区切りながら紹介します。



     乞復古記編修議
  近日、本館職制更正の挙あり。編集の方また随てその端を
  改む。従前、三科〈後小松天皇以降後陽成天皇に至る史料
  一科、後水尾天皇以降先朝に至る史料一科、今上復古記・
  府県史・明治史要・征西始末等一科〉を挙げて一に後小松
  天皇以降国史編修の事に従ふ。ここにおいて、復古記一科
  主任する所なし。



まず明治14年末の再編によって『復古記』の編纂が停止された

ことを述べた長松は、続いてその編纂が開始された経緯を

述べていきます。



  、謹て按ずるに、 今上御極、朝権古に復す、その盛徳
  大業前古比なし。而して当時朝廷積衰の余を承け、兵馬の
  権なく土地の富なく、その海内の命を制する一の名義ある
  のみ。その際、反乱相踵き兵結解けず。幸いに
  今上睿明、神武在廷、元老これを輔賛し、正議雄藩これを
  外に翼戴し、揆乱反正、もって東京臨幸大政帰一に至る。
  然れども朝廷記載備らず。その盛徳大業、元勲偉烈の跡より、

  それ列藩の向背、反乱の情形に至るまでその首尾顛末得て

  詳悉すべからず。ここにおいて往年、復古記〈丁卯十月

  大政奉還に起り、戊辰十一月東京臨幸、鎮守府を廃し

  大政帰一に終る〉編纂の命あり。

  、これを承けてその事に従ひ、百方捜索、藩記・私記の
  類羅致粗備り、復古正記三十余本、復古外記〈東海・東山・
  北陸三道戦記〉二十余本を編す。



しかし、以前にも紹介した明治6年5月5日の皇居の火災 によって

歴史課 が編纂してきた稿本の類はすべて焼失してしまいました。



  而して浄写の際、六年五月、祝融の災に罹り、稿本・原記
  等を併せて一瞬烏有に付す。再び諸記を博捜し、その事
  ありてその書なきはその家もしくはその人に就てこれを問ひ、
  経営数年、僅かに稿を成し、漸次脱稿上進せしもの一百有余巻、
  その余す所、十の二三のみ。



こうして再び編纂の業務を進めつつあった長松にとっては、

14年末の改正による編纂の停止はそのまま受け入れられる

ものではありませんでした。


  これ宜しく主任を置き、その業を畢べきなり。
  抑(そもそも)前世の史の如きは、これを修る諸旧記の在る
  あり。遅速必しも利害あらず。復古記に至りては、その書の
  拠るべきなく、その事に就きその人に問ひ、もって前後首尾を
  接続するもの極て多し。今にして修めざれば、その人亡ひて
  その事佚し、後来また手を下す所なからん。その遅速の利害に
  関するや、甚大なり。


『復古記』編纂の再開を主張する長松の主張は、江戸時代以前の

歴史については記録類に記されているのだから相対的に急ぐ必要は

ないが、体験した人物からの聞き取りが大きな位置を占める維新史

の編纂はその人物が亡くなればもう事実を解明することができなく

なるので、もっとも優先すべきものだというものでした。


この続きは、また次回に紹介します。

→→→つづく。