甕江・川田剛小伝 | かんがくかんかく(漢学感覚)

甕江・川田剛小伝

おはようございます。

今回は、甕江・川田剛(1830-96)の前半生を紹介したいと

思います。


川田剛は、甕江【おうこう】と号した漢学者で、明治6年(1873)

文部省の委嘱によって江戸時代以前の歴史の編纂を

開始しました。


政府による歴史の編纂は、明治2年に一度試みられましたが、

これは間もなく途絶し、同5年に太政館正院に歴史課 が設置

されますが、これは、当初は小松彰長松幹 のもとで明治維新の

歴史を編纂することに主眼を置くものでした。


川田が歴史の編纂を開始した翌明治7年、川田らが太政官正院に

移動となる形で、江戸時代以前も含む形での修史事業が歴史課

の業務として一本化されます。川田は、歴史課から修史局

修史館 と引き続いて勤務し、明治14年に宮内省に転じた後は

諸陵頭・帝国大学教授となり、文学博士の学位を授与され、

貴族院議員にも勅撰されています。



その川田については、これまでも何度か紹介してきましたが、

今回は、その幕末の事蹟を取り上げたいと思います。


→→→これまでの関係記事はこちら。


  ◆若い頃に和歌を学んだ小野務について、川田が

    回想した文章「小野務」の紹介

  ◆近江国大溝藩(藩主分部光貞)の依頼で川田が編纂した

    『藤樹先生年譜』の紹介

  ◆明治6年、文部省の委嘱により歴史の編纂に携わり、翌年

    太政官正院歴史課 (のちの修史局 )に転じた川田とその

    周辺の学者たちの紹介。その1

  ◆明治14年12月、修史館 を去って宮内省に転勤した際の

    経緯の紹介。その1

  ◆川田が梅若実のもとに通って謡曲勧進帳を稽古した

    逸話の紹介



川田は、天保元年(1830)6月13日、幕府の直轄領であった

備中国浅口郡阿賀崎村の商家に生まれました。

旧称を竹次郎といった川田は、備中国松山藩山田球

(方谷、1805-77)に若くしてその才能を見出され、松山藩主

板倉勝静(1823-89)に仕えて江戸藩邸の督学となり、

さらに目付に昇進しました。



文久2年(1862)川田は、西洋の軍艦軍艦を購入することを藩に

建議します。この建議は藩の認めるところとなり、間もなく

軍艦一隻を購入して快風丸と名付けられ、平時は備中の

玉島港より物資の輸送に当たり、一方で戦時に備えました。



慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いが起こると、

川田は江戸からの帰国を急ぎます。

しかし藩では、藩主勝静が老中を勤めていたことなどもあって、

幕府方に味方することをすでに決定し、藩士熊田恰

150の兵を率いて大坂に駐屯していました。

川田は、熊田をはじめとする藩士たちに共に帰国することを

説き、海路玉島港に帰還しました。


一方新政府軍の一翼を担う岡山藩は、鎮撫使として備中

松山に至っており、兵を遣わして熊田らを討とうとしていました。

松山藩では、藩論は新政府に帰順することに転換しており、

熊田たちにも他意のあろうはずがない旨を弁明しましたが、

鎮撫使側はそのままには受け入れず、熊田をはじめ主だった

者の首を差し出すように迫ります。


これを受けて松山藩では、熊田の許に密使を派遣して、

自害することで多くの者の命を救うようにと諭しました。

熊田は、川田に言います。


吾は武人、死を惜まず。子【し】、幸に死期を教へよ。


川田が熊田に代わって鎮撫使に対する謝罪の文書を

作成すると、熊田は快く自害して果て、その首を鎮撫使

差し出して事態は収まりました。


帰藩した川田は、重臣たちと共に今後の策を練り、奴僕に

変装して秘かに京に入ると、旧知を頼って藩に対して

重い処分が下ることのないように工作を開始します。



一方藩主板倉勝静勝全父子は、幕府軍と共に奥州から

函館へと転戦していたため、藩では仮の藩主を立てて窮地を

脱する策に出ます。

そこで、江戸に潜んでいた板倉勝弼(1846-96)を松山に

迎え入れるべく、江戸に赴いた川田は、商人に身をやつして

勝弼をその従者に変装させ、横浜より海路神戸に出て帰国を

果たしました。



勝弼を藩主に立てて藩の存続を願い出ようとしていた頃、

藩主勝静が函館におり、また世子勝全が陸奥にいる

ことが判明したため、川田は他の重臣たちと共に

まず勝全を秘かに江戸に迎え入れ、次いで外国の商船に

託して函館の勝静を迎えます。


藩主父子を自首させることを危ぶむ重臣たちもいましたが、

川田は次のようにいいました。


断じて死を賜ふことなし。若【もし】有らば、屠腹これに

従はん。 」


川田の予想通り、勝静父子は死罪を免れて終身禁錮とされ、

後に赦されて東照宮の祠官などをつとめました。


こうして藩主の信頼を受けた川田は、特に板倉家の菩提寺

である東京都文京区駒込の吉祥寺に葬られています。


     


この墓碑などについては、また別の機会に紹介したいと

思います。