こんにちは! こうの史代です。
今日、珍しく新聞を読んでいたら、こんな言葉が載っていましたよ。
確かに。
わたしはお涙頂戴が嫌いで、悲しいことは世の中にいっぱいあるのに、何でお話の世界でまで悲しまねばならんのだ、とつねづね思っているのです。
だから、お涙頂戴が好きな大人は、悲しいことが少ない幸せな人なんだろうな…と思うのです。
しかし。
そんなわたしでも、小さい頃にはテレビアニメ「ワンサくん」の終わり何話かは、確か毎回めそめそ泣きながらも楽しみに見ていた気がするのです。
毎日夕方見ていたので、たぶん再放送とは思いますが、わたしはせいぜい小学生中学年以下でした。
<うろ覚えの終わり何話かの「ワンサくん」のあらすじ>
ある時、ワンサくんの街のどぶ川に汚い犬が流れてきて、みんなで助けたら、その犬は実はワンサ君の生き別れたお母さんで、最初は汚くて嫌だったワンサくんも、きれいに洗ったその犬の匂いが確かにお母さんの匂いで、再会を喜ぶんだよね。
お母さんのいない仲間の犬たちも、このお母さんに甘えて、可愛がってもらうんだよね。
でもお母さんはすでに病気で、ある日突然いなくなってしまうんだけど、たぶん死ぬ姿を見られたくなかったんだね…。
※(お母さん、一切資料無しなので超うろ覚えでごめんなさい)
まだ悲しいことが少なかったから、素直に楽しめていたように思うんだよね。
今見たら、やっぱりお涙頂戴みたいに見えてしまうのだろうか。
つまり。
類型的な感動は、むしろ子どものうちしか純粋に楽しめないんじゃないかな。
子どものうちにどんどん消費しておくべきでしょうな。
ちなみに、お涙頂戴で有名な「フランダースの犬」は、
昔から好きではありません。
パトラッシュがかわいそうじゃろが!
ではまたね!