「軍神関行男中佐」の母サカエの戦後 | 先祖を尋ねて

先祖を尋ねて

姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

「軍神関行男中佐」の母サカエの戦後
歴史

五軍神慰霊祭-7


画像は同時代の戦闘機、文章とは直接関係ない。
文章はWEB「楢本神社」を引用し、加工した。著者不明。
 (注):文中の(略)は著者が、(割愛)(注)は光源氏が行った。(責任:光源氏)

図1.魚雷・爆弾登載飛行艇図1.JPG

→『引用始まりーーー
日本の特別攻撃隊について アンドレ・マルロー(元フランス文化相)

 「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわりに何ものにもかえ難いものを得た。
それは、世界のどんな国も真似のできない特別攻撃隊である。
スターリン主義者達にせよ、ナチ党員にせよ、結局は権力を手に入れるための
行動だった。
日本の特別攻撃隊達は、ファナチックだったろうか。 断じて違う。
彼等には権勢欲とか名誉欲など、欠片もなかった。
祖国を憂える尊い情熱があるだけだった。

代償をもとめない純粋な行為、そこには 真の偉大さがあり、
逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。
人間は、いつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ」
 〔#ファナチツク:fanatic,狂信者〕〔#ファナチズム:fanaticism,狂信的行為〕

図2.一式陸上攻撃機図2.JPG

「軍神関行男中佐」の母サカエの戦後

終 章
1  ・・・(略)
 軍令部の源田実参謀が「神風隊攻撃ノ発表」は「国民戦意ノ振作ニ至大ノ関係アル処」
と政治的効果を最大限に利用しようとしたように、 本土決戦をひかえた内地では、
体当り攻撃の戦果はそのねらい通りに敗色気分を一掃する清涼剤の役割を果たした。
・・・(略)

図3.夜間戦闘機図3.JPG

2 戦後の不幸の例といえば、母一人子ひとりで新婚五ヶ月目に特攻戦死した関行男の
家庭もそうであった。否むしろ、 他の四人の若者達にくらべて関一人が妻帯者
であった為に、悲劇の底は深いのである。・・・(略)
 サカエはその日、近所の人と連れたって町の唯一の娯楽・映画見物に出かけていた。
勇太郎が館内を探して戦死を知らせると一瞬息をのみ、 しばらくうつむいて黙っていた。
気丈な母は、一人息子を喪った哀しみをじっと耐えているようであった。そして、
「兵学校に出したときから、いつかはこうなることを覚悟しとりました」と一言、
勇太郎ら告げた。
それ以降、くり言はいっさいのべなかった。

 地元西条市では、二階級特進した軍神関中佐の母が健在だと知り、
どの地よりもはるかに大きな騒ぎとなった。・・・(略)
 戦死公表が突然であったために、鎌倉の実家に帰っていた妻満里子と西条の母
それぞれに新聞記者が押しかけた。 
記事発表の思惑と地元の熱狂ぶりが先行して、 妻と母は別々に祭壇を設けさせられる
羽目となった。当時の新聞記事を見ると、遺族の心情を無視して鎌倉と・・・(割愛)
人が押しかけている様子がよく判る。 ・・・(略)

図4.本土決戦の主役図4.JPG

 だが、新妻と母の間柄について、地元で思いかけない不評が立つ。
間もなく行われた西条市氷見町の関の葬儀に、新妻満里子は父と一度姿を見せたきりで、
すぐ鎌倉に引き揚げてしまった。いらい西条と鎌倉とは往き来がなく、
敗戦後、サカエが物置き部屋に寝泊まりし極貧のなかで一人暮らしを続けるのに対し、
満里子はまもなく離籍し女子医大に進んだ後、医者と再婚する。
 ・・・(割愛)
だが、新妻満里子の再婚は母サカエの強い希望であった。こんな逸話がある。・・・(略)

「軍神の母」として涙ひとつこぼさなかったと新聞、雑誌に書かれている母サカエは、
しかし息子の友人の前ではちがった表情を見せた。
箱の底の小さな髪の束を見つめるうちに目頭を押さえ、
「西条の人達は行男のことを、軍神、軍神と騒いでくれとるけど、私は生きていて
ほしかった・・・」 と、肩をふるわせた。・・・(略)
 ・・・(割愛)
「先のある人だ。 行男との生活は僅かだったし、復籍してまた新しい人生を
歩めば良いと思うとるんですよ」

 実際、新妻満里子が未亡人となって西条市氷見に戻って来たとしても、
女二人借家暮らしでは将来に見通しが立たない、
軍神の妻と回りが囃したてても、 幼いころから女一人で生きて来たサカエには、
現実生活の難しさが痛いほど理解できたことだろう。

鎌倉女学院を特待生で卒業した才媛と、 石臼で粉をひき草餅の行商で生きている
田舎の母との共同生活には所詮むりがある。観念では理解できても、
現実の生活は立ち行くまい。そのことをよく知っていたのは、幼くして父を亡くし、
女手一人で生き抜いてきたこの母である。

妻満里子が西条を引き揚げた背景には、 サカエのこうした強い意志がある。
「再婚して、新しい人生を歩みなさい」と新妻を励まし、
「私は一人でちゃんと暮らして行けるから・・・」と力づけた。 ・・・(略)
 こうして関の妻満里子は新しい人生を歩み出すが、
この第二の人生は母サカエの終生の望みであったことを改めて記しておきたい。

図5.陸上攻撃機図5.JPG

3・・・(略)
 前掲の村上美代子の回想文である。
この文章は昭和五十年三月、郷里の楢本神社に「関行男慰霊之碑」が建立
されることになり、 西条海軍会の求めに応じて書かれたものである。
この一文にもふれられている通り、
敗戦直後の混乱は母サカエの身にも大きな変化をもたらした。

「軍神の母」が、「戦争協力者」と批難を浴びる立場に移り変わるのは、
他の四人の隊員家族同様である。米軍の進駐とともに陸海軍は解隊され、
それに付随する一切の観念は旧思想として排除された。

「軍神」は「戦争犯罪人」とも批判され、「特攻」は「犬死」扱いとなった。
・・・(略)
旧軍解隊とともに軍人恩給は廃止となった。収入の中心が閉ざされたのである。

 母サカエは途方にくれた。窮状を見かねて、村上美代子が自分の恩師、
氷見古町に住む久門昌代に相談すると
「物置きに使っている部屋が空いているがそれでもよかったら・・・」と
助け舟を出してくれた。

草餅の行商だけでは食べて行くのに精一杯で、
仕事を求めて日傭いに出ることもあった。・・・(略)

 一日の仕事を終えて帰っても、物置き部屋ではただ一人眠るだけであった。
つい一年前は、県知事はじめ地元西条の名士が多数訪れて席の温まる間もない
ほどの忙しさであったものが、いまや誰も訪ねるものがない。

 時代の非情さは、こんな一件にも現れていた。
借り部屋でなく、せめて小さくても自分が住める家があったら・・・という願い
を請けて 村上美代子は夫と相談し、サカエに代わって氷見の切り山ふもとにある
兵舎小屋の払い下げ嘆願書を西条市役所と愛媛県当局に差し出すことにした。

 当時、小屋は廃屋となっており、いずれは取りこわされる運命にある。
一人息子が若くして国のために命を捧げ、遺された母がその日暮らしにも
困窮しているのだから、 関中佐の戦死当時あれほど顕彰を競いあった
県・市当局が何がしかの配慮を「軍神の母」にして呉れるのではないか、
という期待があったからである。

だが、関サカエ名義で出された村上夫妻の願いも、結局無視された。
待てど暮らせどついに何らの返事もなく、
「嘆願書はホゴとして握り捨てられたものであろうと思えば、
情けない敗戦の世情に止めどない涙が湧き出るのでありました」と、
村上夫人は記している。

図6.艦上攻撃機図6.JPG

 久門宅での一人暮らしは約三年間つづいた。
この間、息子を喪った母サカエを二重に苦しめたのは、
「軍神関中佐は生きている」というひそかな町の噂である。
・・・(略)

親族の小野シナにもこんな苦衷を訴えて、涙にくれたことがある。
「戦争に負けたんじゃから山の中に隠れていようとどんな卑怯なことをしようと、
行男さえ生きて戻ってくれたら、私は嬉しいと思うとるのに・・・」


 小野シナ自身も、地元の口さがない連中から
「特攻隊で死ぬなんて馬鹿者(もん)じゃ」
と皮肉っぽい声をかけられたことがある。
「馬鹿かどうか、私にはわからんが・・・」
とシナが、母サカエの貧しい暮らしぶりを思いやって声高に云い返した。

「国が戦争しとるんじゃから、行男さんも我慢して、
身体を壊しとるいうのに出て行きなさった。死ぬのが嬉しい、
云うて出て行く者が、どこの世界におるものか!」・・・(略)

「軍神の母」だからすでに遺族年金をたっぷり支給されているにちがいない、
というもう一つの噂が立った。


後述するように、旧軍人に対する恩給復活法案が国会に
上程されたのは、昭和二十八年六月のことである。
したがって母サカエも妻満里子も、 結局その恩恵に浴することは一度もなかった。
 だが、事実としてこれらの噂話は人々の口から消えることはなく、
生涯母サカエを苦しめるのである。


図7.艦上爆撃機図7.JPG

 昭和二十三年八月、母サカエにようやく恵みの便りが来た。
教員不足で村上夫人は、再び県下周桑郡小松町にある石鎚中学校で
教鞭をとることになり、校長村上国一と石鎚村の村長伊藤一を説き、
同じ敷地内にある石鎚小学校の小使いの職ではどうか、
と話を持ち込んだのである。

「その知らせを聞いたときの関の小母さんの嬉しそうな表情は、
いまでも忘れがたい」と、村上美代子は回想している。・・・(略)

 軍人恩給案は八月に可決され、新任の渡辺校長の世話で、
秋も深まる頃になってやっとサカエにも事務手続きの書類が届いた。
墓詣で(伊予三島の秒除大師にある関家の墓)の帰り、
小野シナ宅を訪れた母サカエは
「来年二月から、私も年金が下りることになったんよ」と、
嬉しげに語った。

・・・(略)・・・米と玉子を土産に持たせて一緒にバス停まで歩き、
元気なサカエの姿を見送った翌日昭和二十八年十一月九日の夕刻、
小野シナ宅に電報が来た。
「サカエキトクスグ コイ」・・・(略)―――行年五十五歳。
敷島隊長関行男の母サカエは、
何一つ花の咲くことのなかった薄幸の人生を閉じたのである。


・・・「あれだけ喜んだ年金ももらえずに・・・」小柄な身体に、
苦労ばかりを背負い込んで生きたサカエの後半生が想い起こされ、
シナは涙があふれてならなかった。・・・(略)

 戒名は「清浄院釋妙栄大姉」―――。
その墓は伊予三島の秒除大師内で、いま関行男とともにある。


 出典:
「敷島隊の五人 海軍大尉関行男の生涯」 森史朗著 ㈱光人社 
  1995年3月刊 (終章P606~625抜粋)  』←引用終り

図8.ゼロ戦図8.JPG

 これを読み返し涙を新たにする。(ノ_・。)
先日の心無い言葉「軍神碑を観光資源に活かすべきだ」
を恥じと知り取り消して、心からお詫び申し上げる。m(_ _ )m

(続く)