関大尉の苦悩 | 先祖を尋ねて

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姓氏のご紹介はほぼ終わったので、日常雑事、架空の物語、政治経済など気儘に書き込む。
参考資料、文献などは要所に集約して示す。

関大尉の苦悩
歴史

五軍神慰霊祭-8


関行男の海軍における階級は、ネットでは出鱈目に流布している。
「特攻」前後の階級は大尉が正しい。将校・尉官として最高位である。
優れた指揮官なので、実戦する兵隊ではない(死後2階級特進で中佐に)。
既に特別戦法は承知して訓練中だったが、一番機(敷島隊)隊長を打診され、
約10秒間、頭を抱えたのち受諾した(3種類の対応記録がある)
本心は全く別だった。

1.『体当たり攻撃法=・カミカゼ・アタック・=特攻隊』決定の経過
 天皇は別として、真珠湾と同様にもっと上層部に届いていると思うが不明。

発案者=第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎中将
 一航艦司令部で、部下の第七六一海軍航空隊司令・前田孝成大佐に
            戦局の非常事態を説明
 フィリピン・マバラカットの会合指揮所で、部下達の
           二〇一空副長・玉井浅一中佐、
           一航艦首席参謀・猪口力平中佐などを招集し、
           体当たり攻撃法を披瀝する(神風特攻の名称は未だ無い)
 足を骨折入院中の、二〇一空司令・山本栄大佐には、この会合とは別に
 一航艦参謀長・小田原俊彦大佐から大西の「体当たり攻撃法」を披瀝され、
  「副長(玉井)に一任する」との伝言を託していた。
 玉井は体当たり攻撃法に賛成、戦闘三〇五飛行隊長・指宿正信大尉も同意、
  「未曾有の攻撃法」の「体当たり攻撃」が採用された。

2.『通達、承知の模様』
  関の同期生・菅野だったが、日本へ航空機受領に行き不在だったため
玉井は、就寝中の関を起こし、体当たり攻撃隊の指揮官として「白羽の矢を立てた」
ことを告げた。玉井によれば、関は「一晩考えさせて下さい」と即答を避け、
翌朝になって承諾する返事をしたという。猪口によれば、関は指名された際に
その場で熟考の後「ぜひやらせて下さい」と即答したという。
いずれにせよ、関は指揮官の指名を受けた後に自室へ戻って遺書を書いた。
 大西は別途、軍上層部に上奏した。


3.『隊編成』
 本居宣長の古歌より命名された「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」で、
各隊3機ずつ配分。この四隊から漏れた甲十期生は別途「菊水隊」へ編入された。
この時点で関はどの隊にも属せず、総指揮官として一種の独立した立場に置かれた。

「敷島隊」のオリジナルメンバーは中野磐雄(戦三〇一)、谷暢夫(戦三〇五)、
山下憲行(戦三〇一)の3名で、いずれも一飛曹だった。
大西が隊員の前に現れて訓示を述べ、握手を行い水盃を交わした。
 WEBにこの写真がある。
敗戦後、責任を取って自決したのは、発案者の大西瀧治郎中将のみである。

4.『関の本心』
 特攻前夜、同盟通信社の記者・海軍報道班員の小野田政は、
関の談話を取りに部屋に入った。関は顔面を蒼白にして厳しい表情でピストルを
小野田に突きつけ、「お前はなんだ、こんな所へ来てはいかん」と怒鳴った。
身分氏名を明かした後、外に出てバンバン川の畔で、関は小野田に次のように語った。

「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、
敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある!
僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとか���行くんじゃない。
最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。
日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。どうだ、素晴らしいだろう!?」

 — 関行男、マバラカット基地近くのバンバン川にて
♪(注):当然ながら、関の「本心」は公開されず、新聞にも載らなかった。
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図1.同窓会名簿
(注):関行男の西条中学同級生(昭和14年3月卒業)は118名おり、約90名は
  物故者となったが、学業、スポーツとも優れ、一校、高等師範など父親の
  勧める案を退け、難関の海軍兵学校に入った。
  身長が高く、ここでも注目されたと云う。

(続く)