「龍馬伝」登場人物紹介 吉田東洋を暗殺した実行犯の三人、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助 | KOHの飄々無常庵
2010-04-25 12:37:33

「龍馬伝」登場人物紹介 吉田東洋を暗殺した実行犯の三人、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助

テーマ:龍馬伝

龍馬伝登場人物紹介、第二十七回は、吉田東洋暗殺実行犯の三人、那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助。


吉田東洋(第六回で紹介済み)の暗殺シーンは、誰が誰だか判りませんでしたので、写真はありません。すいません。

が、犯人はハッキリしています。

天野義久演じた「那須信吾」、高田将司演じた「大石団蔵」、花川仁教演じた「安岡嘉助」の三人です。

今日のテレビでは、山内容堂(第十回で紹介済み)が、いよいよ武市半平太らの駆除を図ろうとしているようですが、この三人はどうなるのか?

では、紹介していきましょう。









まずは、那須信吾。

文政十二年(1829年)生まれ、深尾鼎の家中で御勝手役を務める役人・宅左衛門の次男として生まれますが、

父が六歳の時病死すると兄・金治充美に養育されます。

信吾は当初医学を志し、同郷に住む深尾家典医主座である山崎燮堂(せんどう)に学び剃髪して信甫と名乗る傍ら剣術を古沢八右衛門に、砲術を那須橘三に学んでいます。

特に身長が六尺(約182センチ)あった信吾は力があり剣術も強く、更に修行を積む為に高知城下へ出て坂本龍馬と同じ日根野道場に入門し、槍は岩崎間甚左衛門に入門しています。

そして安政二年に梼原村で道場を開いていた郷士那須俊平に見込まれて養子となり、俊平の娘・為代と結婚、

これを期に名前を信吾と改名します。

梼原村は、高知の中心部から、離れた場所にあり、ここを通って、

吉村寅太郎(第二十回で紹介済み)、沢村惣之丞(第十八回で紹介済み)、坂本龍馬などが脱藩していきましたので、今は「脱藩の道」という史跡があります。

やがて、武市半平太の道場へ入ると文久元年に結成された土佐勤王党に入っています、が、名簿からは削除されています。

吉田東洋暗殺の実行犯の名前があっては、マズかったのでしょう。

吉田東洋暗殺には、実行犯三人のほかに見張り役が十七、八人いたそうです。

那須信吾らは、東洋を暗殺すると前もって支度していた荷物を持って手はず通りに城下を出て、

森・高瀬・別枝村を過ぎて徳道の関所を抜けて伊予を経て長州へ入っています。

脱藩後、那須信吾は、吉村寅太郎の天誅組に参加、天誅組の最期の経緯は、吉村寅太郎の項を参照願います。
http://ameblo.jp/k1217o/entry-10491357539.html

那須信吾は、奮闘して9月24日激戦となった鷲家口の戦いで彦根藩の武将大館孫右衛門を槍で討ち取る戦功を挙げてみせますが、敵兵に囲まれ狙撃されて戦死しています。

享年、34歳。




続いて、大石団蔵。

天保二年(1831年)生まれ、郷士の大石機平の長男として生まれています。

嘉永四年に京へ出て春日潜庵塾に入門し、武市半平太が道場を開くと入門して文武に修行を積んでいます。

家督を相続して郷士職を継ぐと小頭役を務め、文久元年に土佐勤王党に加盟しています。

しかし、やはり、土佐勤王党加盟者名簿には団蔵の名前は記載されてはいません。

が、文久元年十二月十六日に半平太の命を受けて同志山本喜三之進と共に長州へ入り久坂玄瑞、高杉晋作と面会していますので土佐勤王党への加盟は早かったと思われます。

吉田東洋を暗殺すると、安岡嘉助や那須信吾と共に長州の久坂玄瑞らの庇護を受けて京都の長州藩邸に匿われますが、

文久三年五月九日に遊学を目的としていた土佐藩郷士重松縁太郎が大坂で監察方に逮捕されて長州藩に匿われている団蔵や那須らが吉田東洋暗殺実行犯という事を自白してしまいます。

普通なら、これで土佐藩へ送還になるのですが、どういう経緯か、長州藩も対外的に団蔵を匿われなくなったのですが、団蔵らは薩摩藩邸に移る事になります。

その薩摩藩邸で薩摩家中の奈良原家への養子の話が舞い込み、団蔵は悩んだ末に土佐藩を脱藩していた事もあって話を受け入れて島津家の家臣となり名を高見弥市と改名しています。

元治二年正月21日には松本誠一の変名で五代才助(後の五代友厚)らとイギリスへ密航して、ロンドンで数学を学びます。

が、慶応元年に密航した説もあり、どちらが正しいのかはわかりません。

どちらにせよイギリスで学び、慶応三年に帰国すると私学校の教員を務めています。

明治維新後の団蔵は、明治25年に奈良原が沖縄県知事に就任した事から沖縄県庁に出仕します。その後鹿児島に戻り、造士館で教授として後進の指導にあたり、明治29年、亡くなっています。


維新後まで生きたのは、彼一人でした。

享年、64歳。



最後は、安岡嘉助。

天保七年(1836年)生まれ、郷士安岡文助正理の二男として嘉助は生まれています。

嘉助の兄・覚之助は土佐勤王党で幹部として活躍した大石弥太郎から『東郡の覚之助、西郡の樋口真吉』と言わしめた人物で、嘉助は兄の影響を受けてか文久元年武市半平太が江戸にて土佐勤王党を結成して土佐各地で同志を募ると嘉助も勤王党に加盟しています。

しかし、やはり、土佐勤王党加盟者名簿には嘉助の名前は記載されてはいません。

吉田東洋暗殺後は、那須信吾と同じく、長州藩の庇護の後、天誅組に入っています。

天誅組の最期の経緯は、同じく吉村寅太郎の項を参照願います。
http://ameblo.jp/k1217o/entry-10491357539.html
安岡嘉助は、鷲家口の戦いで敗れ、津藩の藩兵に捕縛され京都の六角獄に投獄されてしまい、

元治元年、同士19名とともに処刑されてしまいます。

享年、26歳。



吉田東洋暗殺の日は、東洋は高知城二の丸において藩主豊範に『日本外史』の講義をおこなっており、講義内容は本能寺の変だったそうです。

この日は藩主の参勤交代前の最後の講義という事もあり講義後に酒肴が出され、東洋は少し酒が入った状態で午後十時頃に若党と草履取りを連れて下城します。

信吾らは雨の中で下城してくる東洋を待ち伏せし、自宅付近で襲撃して斬り付けて暗殺に成功したそうです。

吉田東洋も大石神影流の使い手でしたので、簡単ではなかったのでしょう。

雨の日に、三人で、見張りも十七、八人付け、酔っ払っているところを不意打ちしたカタチで暗殺しています。

が、結局、山内容堂は、吉田東洋暗殺犯を捕らえることは出来なかったのです。


でも、武市半平太の土佐勤王党は、山内容堂に潰されることになります。