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「あの時、私は悲しくて、悲しくて、


 何かしないと気が狂いそうでした。


 それで私は生まれて初めて、しきたりを破ったんです。


 腰まであった髪を、短く切りました。


 私の国で髪を短く切るという事は、


 自分の体に深い傷をつけるのと同じ事です」



イチは淡々と語った。


エームとサラは、


イチから伝わってくる深い悲しみに圧倒され、黙り込んだ。


浅黒く整った顔にわずかにかかった黒い髪の短さが


急に痛々しく思えた。



イチは続けた。



「髪を切ると、少し気持ちが落ち着きました。


 でも、何かが自分の中から消えてしまいました。


 消えてしまったその何かが、いくらか戻ってくるのは


 絵を描いている時だけです」



イチは静かに、自分の胸に右手を当てた。


何かの存在を確認するような仕草だった。


しかし、その何かは、やはりなかったらしい。


イチは胸から手を下ろすと、悲しげに首を振った。



両手をきつく握り締めたエームが


かすれた声で聞いた。

「また髪を伸ばしてみたら?」



エームの言葉にイチはにっこりと笑った。



「髪を伸ばしても、何も戻っては来ませんよ。


 それに長い間、髪を切り続けてきたので、


 この短い髪の方が、あたりまえになったんです」



イチはそう言うと、二人がひどく深刻な顔をして


自分の顔を見つめているのに気がつき、


慌てて、とりなすように付け加えた。



「でも『緑の乙女亭』のからくり人形を見た時は、


 絵を描いている時とは違う何かが、戻ってきた気がしたんです。


 胸が熱くなるような、何かです。


 あんな感覚は久しぶりでした。


 ですから、私は『秘密の店』にあるかもしれない


 からくり人形も見てみたいんですよ」



イチはにっこりと、二人に微笑みかけた。



(それに私は、あの草原に住む老人と、からくり王国を探す約束をしている)



イチはその事を忘れてはいなかった。


ただ、それほど深刻に考えていなかっただけだ。


ジンゴロ爺さんの呪いなんて信じてはいなかった。


しかし・・・・



(からくり王国。


 それはたぶん、からくり人形と繋がっている。


 あの老人に呪いをかけられてから、


 奇妙なほど立て続けに、からくり人形に出会っている。


 そしてたぶん、これからも、からくり人形に遭遇する気がする)



イチは、あのインチキ臭い呪文を唱えている時の


ジンゴロ爺さんの真剣な顔を思い浮かべた。



「さっきは、酷い事言って、ごめんなさい」



ふいに、サラが謝った。



自分の思いに沈んでいたイチは、はっと我に返り、


サラに優しく微笑んだ。



「謝らないでください、サラさん。


 あなたは間違った事は言ってない」



サラはきゅっと口を引き結ぶと、


決心したようにイチに言った。



「私の絵を描いてちょうだい。


 父さんが感激して、緑の乙女亭まで走って行くような絵をね。


 それで秘密の店を探し出しましょう」



「サラ!」


エームが嬉しそうにサラに飛びついた。



イチはにっこりとうなずいた。


「どんな風に描いて欲しいですか?」



「分からない。


 毎日見ても、うんざりしない絵なら何でもいい」



「分かりました」



「あたしは店番してくるわ。サラの代わりに」


エームは小さな声で二人に告げると、


そっと部屋を出て行った。


必ず『秘密の店』を見つけてみせると、心に誓いながら。


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